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「きょう」の信仰

- 2001年1月14日 -

 竹田亮一師

ヨシュア記4-5章

4章23節に「主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。」とありますが、ここでの「あなたがた」は、21節の「あなたがたの子どもたち」即ち、ここでヨルダン川を渡った民の、ずっと後の子孫たちです。

ですから、「あなたがた」にはヨルダン川の経験はありません。ましてや23節後半、葦の海を渡った世代は、ヨルダン川渡りの時点で既にヨシュアとカレブの2人以外は残っていません。ずっとずっと過去の話、でもそれを「あなたがた」のこと、と言っています。即ち、ここには聖書の中の出来事を今の私たちの経験として理解しなさい、というメッセージが込められているのです。

5章で主は、それまで滞っていた割礼を命じます(2節)。民のすべてが割礼を受けたとき主は「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」と言われました(9節)。主のおことばに従って信仰の決断をした時が「きょう」なのです。「ギルガル」は転がすという意味です。古いもの、忌まわしいものは転がして捨てられてしまいました。そして、12節では出エジプトの日々の象徴であるマナがなくなり、新しい日がやってきたのです。

「イエス様は世界の罪、全てのひとの罪を背負って十字架で死んで下さった。」確かにそうです。しかし、それを教義とか神学として漠然と、あるいは単に知的に理解しているだけでは何にもなりません。イエス様の死と復活は「きょう、このわたしのためなんだ!」ということをしっかりと把握して下さい。例えば聖餐式も、ただ儀式として行うのではなく、イエス様のからだ、イエス様の血は、他ならぬこのわたしのため、としっかり覚え、きょう、十字架を経験するのでなければ意味がありません。

直接神様と出会い、神様と個人的な関係ができることで人生の全てが変わる、それがクリスチャン生活であり、わたしたちの信仰です。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」(詩篇8:4、ヘブル2:6)
英語の聖書では"you are mindful of him"となっています。mindful、つまり神様の心は、わたしのことで、あなたのことでいっぱいなのです。だから「神は、実に、そのひとり子をお与えになった」(ヨハネ3:16)、全知全能の神様が、十字架で殺されることは百も承知で、愛してやまないひとり子を地上に送られたのです。このわたしの、あなたのために。それほどまでに、このわたしを、今この時に愛して下さっているんだ、ということを深く味わって下さい。




主イエス様、あなたの十字架をわたしにきょう経験させて下さい。その恵みを無駄にすることがありませんように。あなたの愛を今この時覚えさせて下さい。あなたの愛を軽くあしらわないようにさせて下さい。聖霊様、神様の愛とみわざ、みことばの実体験を与えて下さい。イエス様の御名によってお願いします。アーメン。

 

2001/01/14更新

 

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