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祝福のもてなし・祝福のとりなし

- 2001年1月21日 -

 水野明廣 師

創世記 18章

  あなたの家に今イエス様がいらっしゃったら、どうされますか?きっと「あれもして下さい、この事も教えて下さい・・・」となるのではないでしょうか。でもアブラハムはそうしませんでした。ただ主が喜ばれるようにと、自ら給仕をしました。そこには勘定ずくの下心(箴言23:7)はありませんでした。アブラハムはひたすら主に仕え、主を礼拝したのです。
  聖書には監督の条件として、「よくもてなし」が2回出てきます(1テモテ3:2、テトス1:8)。監督といっても、教会で特別な務めについている人に限定されるべきではなく、これは主に仕えるクリスチャン全てに対する勧めでもあるのです。

 隣人や、時には家族をもてなすことには大きな祝福があります。イエス様は言われました「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)
 私たちの家庭・私たち自身の心は、主に喜ばれたい、主をお迎えしたい、主にくつろいで頂きたい、という思いで満たされているでしょうか?主は今も問うておられます「わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」(イザヤ66:1)  主はアブラハムの心からのもてなしを喜ばれました。だからこそ「来年の今ごろ・・・あなたの妻サラには、男の子ができている。」という明確な約束を下さいました。そしてそれはのちにおことば通り成就します(創世記21)。それだけではありません。主は「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と考えられました。隠し事をしない、というのは特別に親しい、信頼できる関係に入ったという証拠です。

  主がソドムとゴモラにさばきを下す御計画を告げられた後も、アブラハムは動こうとせず、激しいとりなしの祈りを始めました。とりなしの祈りの務めは極めて大切です。この時アブラハムがとりなさなかったら、ロトは助かったでしょうか(創世記19)。モーセの嘆願がなかったらイスラエルの民はどうなっていたでしょうか(出エジプト記32)。ハンナが激しく祈らなかったら預言者サムエルは生まれていたでしょうか(1サムエル1)。ネヘミヤの断食の祈りがなかったらエルサレムの神殿は再建されたでしょうか(ネヘミヤ記)。ダニエルが伏して願い求めなかったらバビロンに捕らわれていた民はエルサレムへ帰ることが果たしてできたでしょうか(ダニエル9-10)。
 主はこのとりなしの務めを、主といつも共にいる人に、主の前を動かない人に委ねられます。その人こそ祝福の相続者です。

  主は決して私たちを離れないと約束されました(ヘブル13:5)。聖霊様がいつまでもともにおられるのです(ヨハネ14:16)。それにひきかえ、私たちが主を忘れ、主から心離れてしまうことが何と多い毎日でしょうか。
 日曜日の礼拝だけではありません。ウイークデーの生活や仕事の最中にも「主がともにおられる」という意識を常にもちましょう。「イエス・キリストを、いつも思っていなさい。」(2テモテ2:8、ヘブル3:1)また口で告白するようにしましょう(ローマ10:10)。




  「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」(ガラテヤ3:9)
 主イエス様、私たちも祝福の父、アブラハムの信仰にならうことができますように。あなたに、また兄弟姉妹に、喜んで仕える霊で満たして下さい。いつもせいいっぱいイエス様のことを思える私たちでありますように。
 あなたの前を動かずにとりなす務めを全うできますように、聖霊様の格別な助けをお願いします。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン。

 

2001/01/22更新

 

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