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祝福に生きるとは

- 2001年3月11日 -

 水野明廣 師

創世記26:13-33

私たちは、神の祝福の子孫です。しかし、私たちが受けるべき祝福を奪おうとする敵が存在することも事実です。

過去の歴史においても、カインは、アベルのささげ物のほうが神に受け入れられたのをねたんで弟を殺してしまい、ヨセフも、彼の夢のために他の兄弟からねたまれて、エジプトに売られました。イエス様も祭司長、律法学者たちのねたみから、十字架に渡され、パウロもまた、人々のねたみによって、あらゆる迫害にあったこと・・・等々。ねたみは、神の子たちが神の祝福に生きるのを妨げる根本的な大きな要因のひとつなのです。

主がイサクを祝福された時、ペリシテ人が彼をねたんで、彼の井戸に土を入れてこれをふさいでしまいました。このように、神からの祝福をふさいでしまおうと、私たちの心の中に、最初に敵が入れてくるのがねたみという土砂です。「ねたみは、黄泉のように激しい」(雅歌8:6)とあります。

ねたみの恐ろしさは、ねたむ人自身が神の祝福を逃してしまうばかりでなく、ねたむ相手の祝福をも壊し、殺そうとすること。また、ねたみは家族、同僚、兄弟姉妹といった最も近しい人との間に起こり、秩序を乱し、平和を破壊することです。ねたみは本人がそのことに気づき難いため、私たちは常に自分の心をしっかり見張り、聖霊様に心を探っていただかなければなりません。
イサクがあきらめずに、再び井戸を掘ったように、私たちもねたみという土砂を掘り出し、捨ててしまいましょう。この世は常に他人と比較、競争する社会で、人をねたみの対象に見がちです。しかし神の国は愛、喜び、平安です。

神の国には、ねたみは存在しません。人はあくまで愛し、仕える対象です。たとえ他の人からねたまれることがあってもさらにへり下り、その人の祝福を祈りましょう。私たちは繰り返しやってくるねたみの霊に対し、断固としてこれを拒否し、忍耐強く信仰の戦いを戦い抜き、これに勝利して、心から人々の祝福を願って、祈っていく時、本当に祝福に生きることができるのです。
私たちは、神の祝福の子孫です。しかし、私たちが受けるべき祝福を奪おうとする敵が存在することも事実です。

過去の歴史においても、カインは、アベルのささげ物のほうが神に受け入れられたのをねたんで弟を殺してしまい、ヨセフも、彼の夢のために他の兄弟からねたまれて、エジプトに売られました。イエス様も祭司長、律法学者たちのねたみから、十字架に渡され、パウロもまた、人々のねたみによって、あらゆる迫害にあったこと・・・等々。ねたみは、神の子たちが神の祝福に生きるのを妨げる根本的な大きな要因のひとつなのです。

主がイサクを祝福された時、ペリシテ人が彼をねたんで、彼の井戸に土を入れてこれをふさいでしまいました。このように、神からの祝福をふさいでしまおうと、私たちの心の中に、最初に敵が入れてくるのがねたみという土砂です。「ねたみは、黄泉のように激しい」(雅歌8:6)とあります。

ねたみの恐ろしさは、ねたむ人自身が神の祝福を逃してしまうばかりでなく、ねたむ相手の祝福をも壊し、殺そうとすること。また、ねたみは家族、同僚、兄弟姉妹といった最も近しい人との間に起こり、秩序を乱し、平和を破壊することです。ねたみは本人がそのことに気づき難いため、私たちは常に自分の心をしっかり見張り、聖霊様に心を探っていただかなければなりません。
イサクがあきらめずに、再び井戸を掘ったように、私たちもねたみという土砂を掘り出し、捨ててしまいましょう。この世は常に他人と比較、競争する社会で、人をねたみの対象に見がちです。しかし神の国は愛、喜び、平安です。

神の国には、ねたみは存在しません。人はあくまで愛し、仕える対象です。たとえ他の人からねたまれることがあってもさらにへり下り、その人の祝福を祈りましょう。私たちは繰り返しやってくるねたみの霊に対し、断固としてこれを拒否し、忍耐強く信仰の戦いを戦い抜き、これに勝利して、心から人々の祝福を願って、祈っていく時、本当に祝福に生きることができるのです。

 

2001/03/17更新

 

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