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祝福に生きるとは

- 2001年4月8日 -

 水野明廣 師

創世記26:14-22

神様は、私たちの内で、生ける水が泉となってあふれ、とどまることなく川々となって流れ出るように祝福しようとしておられます。

しかし、現実には、この祝福の流れがふさがれてしまうようなことが起こって来ます。
すばらしい神の祝福を体験したり、聖霊が流れ始めた時、必ずしも回りの人々がともに喜んでくれるとは限りません。むしろ批判や攻撃を受け、争いや不和が起こることが多いのです。

イサクも祝福の井戸を掘る時、エセク(争う)、シナテ(敵意)と呼ばれるような争いが起きました。[創世記 26:14−22]しかし彼は井戸を掘るのを止めず、さらにもう一つの井戸を掘った時、神様はイサクを広い所に導いて、祝福してくださいました。

私たちが神の祝福の現れを体験し続けていくためには、迫害や苦難を通らされることがあるのです。しかも、最も近い人や尊敬している人から攻撃されることが多いのです。
しかし私たちに敵対する相手は人ではなく、悪魔、罪の力であることを覚えなくてはなりません。私たちは、誰に対しても平和な心を持ち、その人の祝福を祈りましょう。

悪魔は私たちに祝福の井戸を掘ることを止めさせようとします。私たちから、神を求める心を奪い、熱くも冷たくもない、なまぬるい状態にとどめようとします。神の祝福が来た時には、へり下って、いっそう主に渇いて求めつづけ、更に自分自身を掘り下げ、人々に祝福を流し出していきましょう。
また、与えられた一つ一つの小さな恵みと祝福を見つめ、これらを大切にして、感謝しましょう。私たちが神の祝福を求めて、後ろのものを置いて前のものに向って前進し続けるなら、主は必ず広い所に導いて、誰にも奪うことのできない祝福の泉に引き上げてくださいます。

あなたは人々に、私の頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かなところへ私たちを連れ出されました。[詩編 66:12]

 

2001/04/08更新

 

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