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祝福の現実

- 2001年4月15日 -

 水野明廣 師

創世記28:10-16

ヤコブは神様の祝福に執念を燃やして、これを願い求めましたが、兄のエサウは祝福に無頓着でした。その結果、エサウはこの世の楽しみにとらわれてヘテ人の妻をめとり、神を恐れない、乱れた結婚生活を送っていました。(26:34〜35)

父イサクはこれに心を痛め、ヤコブには良い結婚をして、良い家庭を築いてほしいと思ったのです。そこで、妻を求める旅へと送り出しました。エペソ5:31には「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」とありますが、この「結ばれる」は、男性が自分から相手の女性を追い求めて、その女性と結婚する、という意味があります。
これはクリスチャンの結婚の幸いな姿であると同時に、御子イエス様が、自ら地上に下られて、私たちクリスチャン、教会を「恋い慕って」(雅歌7:10)、花嫁として求め、迎えに来て下さるお姿を表しています。

ですからパウロが続いて32節で「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」と書いているのです。 しかし、ヤコブにとっては、決して嬉しいばかりの旅立ちではありませんでした。「祝福を奪い取ってしまった」ヤコブの命をエサウが狙っていたために、ヤコブは追われるようにして家を出なければならなかったのです。
その上、父イサクから何重にも祝福を受けて(28章の1〜4節、また6節には何度も「祝福」という言葉が重ねられています)送り出されたのに、彼はひとりぼっちで荒野を歩き続け、石を枕にして休まねばなりませんでした。聖書は一言も記していませんが、「その場所で横になった」ヤコブの心中たるやいかばかりであったでしょう。

クリスチャンが成熟するために、誰でも必ず経験しなければならないのが孤独と孤立です。特にそのひとが神様の大きな働きに召し出される前には、とても長い期間、寂しさに耐えなければなりません。ヤコブの息子ヨセフもそうでした。
モーセも、ダビデも、エステルも、バプテスマのヨハネも、使徒パウロ・使徒ヨハネも皆そうでした。そしてイエス様も、「御霊に導かれて」ひとり40日の荒野での断食に退かれたのです。彼ら主の器に共通しているのは、孤独の中で、「神がともにおられる」インマヌエルなる主との劇的な出会いを体験していることです。ヤコブは夢を見ました。天から「地に向けて立てられている」はしご、それは、一方的に手を差し伸べて下さる、神様の愛と恵みと憐れみの御手に他なりません。「そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。」

私たちが孤独と絶望の中で、ただ主を見上げるしかない、その時に、聖霊様は、主が私たちと共におられるのを、霊の目ではっきりと見せて下さるのです。「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り・・・わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」主イエス様は、このお言葉を今も、いつでも私たちにかけて下さっています。「そのはしごを上り下りしている」御使いは私たちのためにも働いています。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされた」(ヘブル1:14)からです。

主は決して私たちを放っておかれたり、見捨てたりされるお方ではありません。私たちが最も必要としている時と状況に、主御自身が必ず介入して下さいます。主に出会い、主の恵みの御手に引かれて、私たちは、また一段信仰のステップを登るのです。「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」

今も生きて働く主を、「この所」で体験し、祝福から祝福へと歩まれますように。主イエス様、ヤコブの孤独をおぼえます。どんなに寂しく辛く思えても、生きておられる主が共におられることを、もっとはっきりと知ることができますように。イエス様、あなたの御臨在の中で、一方的に流れる恵み、祝福と守りと力の確かな経験を与えて下さい。聖霊様の助けを求めます。死から復活された、よみがえりの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 

2001/04/17更新

 

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