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祝福の現実B

- 2001年5月6日 -

 水野明廣 師

創世記28:20-22

人を通して慰めが来ることもあります。しかし、源は主です。人によるものであれば、つまづきもありますし、人は去っていくこともあります。もちろん、主が人を通して慰めを与えられることはありますが、主は常にともにおられます。

ヤコブには温かい家族がいましたが、やがて一人になります。しかし、ヤコブは神がともにおられることを知りました。また、イエス様も人々の前から姿を消された時、人々は恐怖の中に集まっていましたが(ヨハネ20:19)主が再び現れた時、そこには平安と喜びがありました。

クリスチャンにとって大切なことは、宗教的に知っている、ということではなく、自分自身でキリストを知る、ということです。また、知るということは、誰かの名前を知っているというようなものではなく、一体化した夫婦のように知る、ということです。
今日行われる聖餐式は、もっとキリストを知ることができますように、という意味がこめられています。


創世記28:20-22には「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」とあります。


また、ヘブル4:13-14には「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」とあります。


ここでいう「告白」とは何でしょうか?一般的に用いられている「白状する」という意味ではありません。「告白」とは、「神様がおっしゃったことに、私はそのとおりであることを同意し、確認すること」です。

たとえクリスチャンホームでずっとクリスチャン的な環境で育ったとしても、自分自身がそれを受け入れて告白することが必要です。またそれは、神が共におられることを知ることです。

創世記28章にあるとおり「主が私を守られる」からです。「主が私を無事に帰らせてくださる」と言っておられます。「無事に」ということを心にとめてください。
また、私達は主の前にあって裸です。主が共におられるということは、そこにはごまかしはありません。教会にいる時も、家庭にいる時も同じです。柔和を追い求めてください。

民数記には、モーセは誰よりも謙遜だったと書かれています。出エジプト記にあるように、モーセに対して誰もお礼を述べようとはせず、ただつぶやきだけでした。しかし、モーセは神と顔と顔を合わせて話し、神により頼みました。

神が共におられるということを考える時、私たちの中から全ての悪いこと、不品行なども避けることができます。イザヤにしても、ヨセフにしても、またヤコブについても同様です。

私達は気がつかないだけですが、神は、神を受け入れた者と常に共におられます。
ルカ9:1には「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。」とあります。この力と権威は全てのクリスチャンに授けられました。


大切な点はこの3点です。
・主が共にいてくださる。
・主が守ってくださる。
・もう一度、本当の私の家まで無事に送り届けてくださる。


私の喜びは主から来ます。また、私の力も主から来ます。神は喜びです。
コリント第2 8:8に「他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。」とあるとおり、愛が本物であるかを見ておられます。捧げることを惜しみなくしてください。献金についてもそうです。


間接的に人から喜びは来ることもあります。しかし、喜びは主から来るものです。
もっと主を知ることができますように。

 

2001/05/08更新

 

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