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祝福の確信

- 2001年5月27日 -

 水野明廣 師

創世記30:25〜35

ヤコブは、その名の通り、ひとを「押しのけ」(創世記27:36)、ひとをだましながら人生を歩んで来ました。しかし、そのヤコブを「欺き・・・報酬を幾度も変え」(31:7)二人の娘さえ「売り・・・代金を食いつぶした」(31:15)しゅうとのラバンは、数枚上手でした。このラバンは、正に私たちを取り巻く世界、罪が蔓延して、だまし合いと裏切りが渦巻くこの世の象徴でもあります。

ヤコブは、主から何度も「わたしはあなたとともにいる」との約束を受けていました(28:15、31:3)。私たちも、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)とイエス様から約束を頂いています。しかし、ヤコブだけでなくヨセフや、モーセの生涯を見てもわかるように、主がともにおられるなら、問題や試練には遭遇しないというのではありません。。そうではなくて、主がともにいて下さるなら、どんな境遇でも勝利することができ、祝福を確信できるというのが聖書の約束です。

ラバンに二十年間仕えてきたヤコブは、「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。」と許可を求めに行きました。昔のヤコブなら、妻と子を連れて黙って出て行ったでしょう。この事一つからも、ヤコブが随分と変わったことがわかります。ヤコブは柔和で謙遜な人になったのです。主が「ともにいる」なら、そしてその事がわかっているなら、高ぶりの余地はないはずです。報酬を求めたヤコブに、ラバンは更にひどい仕打ちをします。「・・・取り出して、自分の息子たちの手に渡した。そして・・・三日の道のりの距離を置いた。」(30:35〜36)つまり、ヤコブの手元に何も残さなかったということです。しかしヤコブは、報復したり、ラバンの家畜をだまし取ったりしませんでした。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われた主イエス様の御臨在の中では、仮に人からだまされても、その相手を憎まないほどになるのです。

昔は兄エサウの祝福をずる賢く奪い取ったヤコブですが、ラバンの元では、手抜きやいい加減な事をせずに全く勤勉でした。彼は「わたしがあなたのために働いた骨折りは、あなたがごぞんじです。」(30:26、口語訳)と言いましたが、その「骨折り」はラバンに「あなたのおかげで」と言わしめるほどのものでした。真面目に働いて、ひとに仕えることを、おろそかにしてはいけません。仕事(しごと)は「仕える事」と書きます。パウロも「自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」(1テサロニケ4:11〜12)と奨めています。信仰生活についても同じ事が言えます。即時的な聖霊様の現れ、主の一方的な御介入だけを望むのではなく、日々の祈りや礼拝を地道に積み重ねることが大切なのです。

しかし、「あなたのおかげで」と言われたヤコブは「主があなたを祝福されたからです。」と答えています。彼は「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(箴言10:22)という事、主御自身こそが祝福の源である事を、身を以て知っていたし、だからこそへりくだっていたのです。

私たちは、自分を取り巻く環境や世界が変わることを求めがちです。「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)実は、変わるべきは私たち自身なのです。クリスチャンが変えられ、成長するのは、生きておられる神様、主御自身に出会う時です。そして現実の生活で「主がともにおられる」という事を常に意識し、告白することで、心を一新して、祝福の確信の中を歩みましょう。



主イエス様、あなたと出会って、私の人生も変わりました。「主がともにおられる」日曜日に教会で歌うだけでなく、毎日の生活の中でいつも告白し、あなたに心を向けることができますように。謙遜と柔和の実を結び、力を尽くしてひとに仕え、地の塩・世の光となることができますように、助け主聖霊様、特別に助けて下さい。イエス様の御名によってお願いします。アーメン。

 

2001/05/31更新

 

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