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更に祝福に進むために(3)

- 2001年9月2日 -

 水野 明廣 師

創世記41章50節〜52節

ヨセフはつらい人生の過程を通らされましたが、その痛みを忘れるほどの祝福をさずかる者とされました。息子の「マナセ」の意味である「労苦を忘れさせる」は、ヘブル10章17節の「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」と主が語られたのと同じように、苦しみ、痛みを思い出すことのないように、忘れさるというのと同じです。

名前には非常に大きな力があります。だから親は願いを込めて子供の名前を付けるとき、一生懸命考えます。また、その願いを日々告白していくことにもつながります。言葉は告白する時、そこに聖霊様が働いてくださいます。

労苦を主が忘れさせてくださったことを、マナセの名を呼ぶたびに思い出し、さらにそのことは完全な実現をとげます。実り多い者としてくださった、とエフライムの名を呼ぶたびに、祝福は告白者のものとなります。私たちは過去に囚われてはいませんか?傷を自分自身で掘り起こしてはいませんか?祝福の人生をおくるための重要な鍵は、私たちがいつも良い言葉を選んで使うことにあります。

箴言12章14節「人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人はその手の働きはその人に報いを与える。」 箴言18章20節「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。」とあるように、私たちは語った言葉を必ず収穫します。ダビデをそのことを知っていました。だから詩編141章3-4節にあるように「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。私の心を悪いことに向けさせず、不法を行う者どもとともに、悪い行いに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。」と歌っています。

私たちは言わなくていいことを言ったり、言うべきことをいわずにすませたりすることが多くあります。だから聖霊様の助けをかりて、ダビデのようにくちびるを見張りましょう。

また、言葉が御霊の思いと一致し、聖霊様が働かれる時、言葉がもっと変わります。五旬節の日、弟子たちは聖霊に満たされて異言を語り、力強く伝道するよう変えられました。

箴言18章21節「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」
箴言13章3節「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」

イエス様は私たちを「私が選んだ。」と言われます。イザヤ43章1節「恐れるな。私があなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」ですから、イエス様が私たちを愛してくだっていることを信じて告白することは大切です。

また、イザヤ43章4節「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」とあります。ですから私たちは、他の人が自分をなんといっているかではなく、私たちを心から愛してくださるイエス様がなんといっているかを気にしなければなりません。私たちもマナセやエフライムの名前のように、日々良い言葉を聖霊様の助けをかりて告白していきましょう。過去にしばられず新しい命を日々生きていきましょう。その時に私たちは労苦を忘れ実り多い者として生きるようにされます。


 

 

2001/09/05更新

 

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