トップページへ神の家族キリスト教会

 

祝福を与える人

- 2001年9月30日 -

 水野 明廣 師

創世記45:1-8

  ヨセフは奴隷としてエジプトへ売られ、人としての尊厳を奪われたばかりか、正しいことをしたがために、かえって囚人の身におとしめられる屈辱を味わいました。そして、誰一人拠り所となる人や慰めが周りにない孤独。どんなに辛く苦しかったか想像を絶するものがあります。そして、遂に兄弟との対面の日がやってきました。自分を売った兄ユダの「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」(44:33)という言葉を聞いて、耐えられなくなったヨセフは、大声で泣き、自分の正体を明かすのです。兄弟たちの驚きたるやいかばかりであったことでしょう。


  絶望の毎日でしたが、ヨセフが「主がともにおられる」ことを見失いませんでした。自分が頼れるには主だけだと悟ったのです。あのダビデも同じような体験から詩篇に歌いました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)孤独な時ほど、慰めの御手は強くはたらきます。主の御臨在は、苦しみの最中でも祝福で覆って下さるのです。「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」(詩篇84:6)主に拠り頼む人生は幸いな人生です。


  ヨセフはここで誰をも非難せずに「神が私を遣わしてくださった」と3回も(5・7・8節)言っていることに注目しましょう。徹底的な試練・苦しみを経たヨセフは謙遜になっていました。奴隷・囚人としてすごす中で彼は自分の弱さ・醜さを思い知らされ、怒りや妬みは既に消えていました。エジプトでの歳月は彼を金銀を炉で精錬するがごとくに練りました。裏切られ、踏みにじられ、壁にぶち当たった後には大きな祝福が待っているだけでなく、その祝福を流し与える器、神の愛と恵みに生きる人へと変えられるのです。これはヨセフだけに限ったことではなく、私たちにも当てはまることです。むしろ自分を害した人が、あなたを通して救われることもあり得るのです。「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2コリント4:14〜16)


  ヨセフを支えていたのは、あの啓示の夢でした。しかし夢の内容とは天地ほども差がある現実、極限の状況に置かれたヨセフでしたが、夢を捨てませんでした。その夢は二十数年の年月を経て成就したのです。私たちクリスチャンは一人一人が、用いられ遣わされるべく選ばれているのです。私たちも主から夢、ビジョンを与えられたら、決してそれを捨てないように、そして実現するように祈り続けましょう。


  天地を造られた主イエス様、ヨセフにならって、もっとあなたに頼る毎日でありますように。頂いたビジョンを、あなたにあって実現させて下さい。怒り・恨み・憎しみから解放して下さい。絶望の中でも、祝福を与える器となれるように、聖霊様、特別に励ましと慰めを送って下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

 

2001/10/04更新

 

先頭へ

戻る