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祝福に生きる人の学び@

- 2001年10月7日 -

 水野 明廣 師

へブル12:6

 みなさんは父親からしかられた経験はありますか?
ある牧師さんの話です。その人は父親に叩かれたことがありませんでした。他の兄弟がしかられて叩かれている時でもその人だけは叩かれませんでした。小学生の時までは、自分だけ特別扱いだと思って喜んでいましたが、中学生になってもそれは続き、とうとう高校生になった時おかしいと思って戸籍を調べたところ、自分がもらい子であることを知りました。その時、自分が捨てられた者であることを知り、心から死にたいと思ったそうです。

 私たちの天のお父さまはどうでしょうか?へブル12章6節「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」とあります。

 ヨブ記1章8節に、主はサタンにヨブのように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は一人も地上にはいないといわれました。そのヨブに神様はサタンが試練を与えるのを許されました。その後に、ヨブは初めて神の御心を知りました。ヨブ記42章2節、5節「あなたは、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」

 ヨブは自分の正しさが主からのただの恵みによってそうすることができていたことを悟りました。そして悔い改めました。へブル12章10-11節「霊の父は、私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」ヨブはこの後、失ったもの以上の豊かさの祝福にあずかるものとされました。

 私たちは単なる器にすぎません。ヨブがあの時、あの時代に正しく生きることができたのは、すべての罪を背負われたイエス様の贖いによりました。主が本当に望んでおられるのは砕かれた心、悔いた心、謙遜な魂です。そして、それは自分の行いではなく主から来るものです。箴言16章2節「人は自分の行いがことごとく純粋だとおもう。しかし主は人のたましいの値打ちをはかられる。」
ワーシップソングに「聖めてください。主のものとなして、聖めてください。主の御心に従います。」という歌詞があります。

 又、イエス様は「私は父の御心を行っているのです。」といわれました。主の御心に従うことが義です。テトス2章14節「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」また、へブル12章14節「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主をみることができません。」

 人は行いが伴わなくなり、年をとって何もできなくたってしまったとき、その人の値打ちがさがると思いますか。主の前にはそれは関係ありません。主がはかるのは魂の値打ちです。それは、柔和な霊、砕かれた心によって完成される御言葉に対する完全な従順。それを主は義とされます。
 神様は私たちをもっと主のものとしたいと思っておられます。神の一人イエス・キリストの血の代価で贖いとられた私たちを愛しておられるから、さらに主のものとしたいと思っておられます。私たちは主のものなのです。その時、私たちは実を結びます。私たちは枝で、枝が勝手に自分の力で実を結ぶことはできません。枝は幹につながっていて初めて実を結ぶことができます。私たちが主の幹にしっかりとつながり実を結んでいけますように。すべての良いこと、愛、義なることは私たちから出たものではなく主によります。私たちは主のものですから、与えられたすべてのよきものを守り相続していきましょう。
アーメン。


 

 

2001/10/10更新

 

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