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祝福にとどまるA

- 2001年11月4日 -

 水野 明廣 師

創世記50章19〜21節

 ヤコブは神の祝福を兄から横取りしました。兄を恐れて逃亡し、ラバンに出会いました。そこで愛する、ラバンの娘ラケルのために7年間働きましたが、今度はラバンにだまされて姉のレアを与えられ、さらに7年間働く事となりました。このことは後に家庭内での争いへと発展しました。これは人間的な失策や愚かさから出てきたものともいえます。しかしヤコブの行いに関わらず主はヤコブを愛されました。のちにヤコブは神様からイスラエル(神の皇太子)という名前を与えられました。そしてこのヤコブから12部族がでてきました。

 またナオミは快いという名前の意味をもっていましたが、生活の頼りにしていた主人と二人の息子を立て続けに亡くしてしまい、悲しみのために途方にくれていました。このとき、ナオミの家系からダビデが生まれ、やがてキリストが誕生することを誰が想像しえたでしょうか?
神様が私たちに望んでいる事は何でしょうか。イエス様は私たちを愛し、心からその存在を求めておられます。私たちと共にいる事を望まれ、私たちのただ中におられ働かれています。神様やイエス様が望まれる事は、私たちが心から本当に主を必要とし、慕い求める人であってほしいということです。しかし、神様は義であり聖であるため、罪とともにいることができません。そのため、私たちが罪や不義の中にある時、私たちは主の祝福を受け取る事ができません。

 モーセはエジプトでの戦いののち、イスラエルの民をつれて脱出することができました。しかし民は数々の場面で主の奇跡を見たにも関わらず荒野をさまよいながら困難な中、不平をモーセにぶつけました。マラという場所に来たとき、そこの水は苦くて飲む事ができませんでした。しかし、主はモーセに一本の木を示されました。それを水になげいれると水は甘くなり、飲む事ができる水となりました。
私たちの人生もまた数々の試練があるかもしれませんが、その時に,私たちがそこにイエス・キリストの十字架を投じるならば苦い水は甘い飲み水へと変わります。その時もはや私たちが生きているのではなく主が私たちを生かしてくださるようになります。
パウロはサウロと呼ばれていたときはキリスト者を迫害するものでした。しかし、光を失って神様に出会ったとき変えられました。人生において成功しか知らなかい人でキリストにであった人はありません。

 神様が望まれ願っておられるのは決して私たちの地位や成功ではなくキリストを必要としキリストを心から愛する人です。大事な事は私たちの心がいつも、どんな状況にあっても主の方に向いていることです。今、私たちの人生がつらく、苦々しいものだと思うのならば主の十字架をそこに置いてみてください。

 キリストはゲッセマネの園で恐怖と戦われました。主が十字架にかかることは、神様の御計画であり、それは私たちの救いが成就するためでした。主は、決して人の弱さを知らないお方ではありません。キリストがそのつらく苦々しい人生を背負って下さったので私たちは勝利する事ができます。どんな困難な状況の中でも主を喜ぶ事、主の御計画に従うことは私たちの力なのです。 

 

2001/11/10更新

 

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