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祝福への召し

- 2001年11月18日 -

 水野 明廣 師

出エジプト記3:1-12

 今回の聖書箇所は、モーセが、イスラエル人をエジプトから連れ出すべく、主から召命を受ける場面ですが、ここからは、私たちクリスチャンが神様に召し出される時に備えて重要な学びをすることができます。

 モーセはイスラエル12部族の中でも、特に信仰篤いレビ人の家に、エジプトで生まれました。ところが、当時エジプトの王パロは、イスラエル人を奴隷として酷使していたばかりか、男の子を皆殺しにする政策をとっていました。両親はモーセを守るべく、パピルスのかごに赤子を入れてナイル川に流しました。神の奇蹟の御手が働き、モーセはエジプトの王女に拾われ、しかも実母を乳母として育てられます。聖書には記されていませんが、幼いモーセの潜在意識には、主なる神への信仰が刻まれていったことでしょう。成人した後、彼は、同胞を救うためにエジプト人を打ち殺し、エジプト王パロから逃れてミデヤンの地にたどりついたのでした。

 ミデヤンの部族はさかのぼると、アブラハムと、彼の後妻ケトラとの間から出ています(創世記25:1〜4)。ですから、モーセのしゅうとイテロは羊飼いであると共に、主に仕える祭司でもあったのです。そこに身を寄せたのも、決して偶然ではなく、神様の摂理によるものです。モーセはここで40年間、当時でも地味で平凡な羊飼いの仕事を日々真面目に続けていました。私たちはともすると霊的なことばかり重要視して、この世での務め、自分の仕事を軽視する傾向に陥りがちですが、それは間違いです。モーセだけでなく、福音書を見ると、イエス様の12弟子は皆、それぞれの仕事をしているうちに召し出されていますし、使徒パウロは天幕作りをしながら宣教に従事した経験(使徒18:3)に基づいて「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(1テサロニケ4:11)と言っています。毎日、各々に与えられた仕事を真剣にするのは、自分自身を霊的にも耕し、守る意義があるのです。

 さて、いよいよモーセが、生ける神との出会いという驚くべき経験をします。彼は柴の中の火の炎の中から、「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」という神の声を聞きます。「あなたの足のくつを脱げ。」このお言葉には、大切なポイントが3つあります。
 当時の道は、当然舗装などされていない土道ですし、動物・家畜の糞がごろごろしていました。従って「足のくつ」は汚れきっています。第一のポイントは、私たちが主の御前に出るときは、この世の穢れを落として清められている必要があるということです。私たちには、聖さが求められています。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです・・・神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。」(1テサロニケ4:3、4:7)神の子クリスチャンも、この世に生きている以上、特に思いのうちに、さまざまな泥や塵、つまりひとへの非難・中傷や肉欲などがまとわりつくのです。主を礼拝する前に、まず、これらの汚れを祈りのうちに落としましょう。また、聖書の時代、靴を脱いだ足を洗うのは、最も卑しい、身分の低い者の務めでした。イエス様は十二弟子の足を自ら身を低くして洗われました(ヨハネ13:4〜15)。足を洗うのは謙遜のしるしでもあるのです。主の前にへりくだりましょう。

 第二のポイントに移りましょう。モーセはホレブの山に登っています。現代の私たちなら、そのために造られた登山靴を履いていくところです。山の中で「あなたの足のくつを脱げ」、即ち自分自身を守るために、人の造った物に頼らないこと、あるいは自分の身に固執しないことを、主は示しておられるのです。旧約聖書では「主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。」」(エレミヤ17:5)と警告されていますし、主イエス様のお言葉にも、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)とあります。この世の何物や自分に拠りすがるのでなく、主御自身に頼りましょう。

 第三のポイントです。足は、進む方向、即ちその人の生き方を示しています。神様は柴の中から彼を呼ばれた後、ただちに「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。」とおっしゃいました。私たちは人生の目標、日々の歩みを自分の肉で決めるのではなく、主を目指し、主に導かれる必要があるということです。パウロは書簡の中でこの事を何度も強調しています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(1コリント6:20)「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(1コリント10:31)
 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)イスラエルの民が、主を礼拝するために、エジプトの奴隷から解放されたように、私たちも罪の奴隷から解放されて神の子、キリストのものとなりました。「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)毎日の生活の中から主に召し出される備えをしましょう。仕事、仕える事と礼拝とは同義語です。主に仕え、主の栄光を現して、約束の祝福を相続しようではありませんか。


 愛して下さる主イエス様、私もくつをぬいで清められて御前に立ちたいのです。人の造った物や自分自身ではなく、主御自身の守りにこの身を委ねます。自分の思いに執着しないで、主の栄光のために生きる道を選び取らせて下さい。聖霊様、そのように、毎日の歩みを助けて下さい。主の御名によってお願いします。アーメン。

 

2001/11/21更新

 

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