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祝福を相続する教え

- 2001年12月16日 -

 水野 明廣 師

出エジプト記20:3-8

 律法とか、戒めという言葉を聞くと、私たちはどうしても、「あれをしてはいけない、これも駄目」というイメージを抱き、信仰生活が、何か窮屈で大変なこと、楽しみや喜びを奪われて束縛されたもののように思ってしまいます。ガラテヤ人への手紙に「律法ののろい」(3:13)「律法の監督」(3:23)と書いてあるのを見れば尚更そう考えがちです。しかし、聖書をよくよく読み、クリスチャンとしての歩みを進めていくうちに、そうではないこと、律法の本質が、だんだんわかってきます。ローマ人への手紙には「律法は聖なるもの」(7:12)「律法が霊的なもの」(7:14)とされていますし、また、旧約聖書にも「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:6、申命記5:10)とのお言葉があります。律法、そしてそれを集約した十戒は、神様が私たちを愛して下さっているからこそ、私たちの幸せ、人生の成功と勝利のために贈られた大切なものなのです。今回は、特に神様と私たちの関係についての戒めを学んでいきましょう。

 5節に「主であるわたしは、ねたむ神」とあります。神様は何て了見の狭いお方だ、と思ったらそれはとんでもない誤解です。「『それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:31〜32)とあるように、聖書では神様と私たちの関係は夫婦の契りに喩えられています。例えば、御主人の上着のポケットから、別の女性の写真が出てきたら、奥さんは心中穏やかではいられないでしょう。まして自らいのちを捨てられるほどに私たちを愛して下さったイエス様、「ご自分のひとみのように」(申命記32:10)私たちを慈しんでおられる天のお父様は、どれほど「ねたみ」をもたれるでしょう。聖書の中で神様は「あなたがた」とも呼びかけておられますが、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」(エレミヤ31:3)というように本来は、「わたし」と「あなた」、ひとりひとりに一対一の親密な関係、単に宗教的な関係ではなく、人格と人格の交わりなのです。

 4〜5節の「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」ですが、私たちクリスチャンは確かに、木や石で造った偶像を拝むことはしないでしょう。しかし、主なる神様以上に夢中になってしまうものが身の回りにないでしょうか。趣味・才能・業績・財力、そして自分自身を誇り、崇拝することがないか、再確認しましょう。天使長ルシファーはその「琴の音」を誇り、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。」と言うまでに高ぶったために、よみに落とされました(イザヤ14:12-15)。ツロの町は「私は全く美しい」と豪語したために「海の真中で滅ぼされた」のです(エゼキエル27章)。使徒ヨハネは「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(1ヨハネ5:21)と警告しています。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)と常に自分自身に言い聞かせなければなりません。

 神様は、「これらすべてを造る者」(イザヤ45:7)「全能の神」(創世記17:1)です。この神様をあがめる心、献身や忠誠を巧みに妨げる力が、この世では確かに強く働いています。主に向き、礼拝を捧げるという、最も大切な行為の前に、時間とエネルギーを消費させる物事が、私たちの周囲にあふれています。また、神様の恵みが当たり前になってしまって、祈りや感謝を忘れてしまうことがないでしょうか。「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20)とおっしゃった主は、「初めの愛から離れてしまった」エペソの教会(黙示録2:4)、「なまぬるく、熱くも冷たくもない」ラオデキヤの教会(黙示録3:15)を、厳しく叱責しておられます。夫婦の関係は片方が冷めてしまっていては成り立ちません。「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」(1コリント13:2)イエス様への愛と、日々の歩みをもう一度吟味して下さい。

 「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」私たちは、主の御名によって祈ります。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:13-14)とイエス様が約束して下さったからです。イエス様の御名によって祈る時、私たちは地上においてイエス様の代理人としての権威と力をもっているのです。この事を知る時、私たちは「主の御名を、みだりに唱えてはならない」ことがわかります。使徒の働きには、いい加減に「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言って、その報いを受けた者が登場します(使徒19:13-16)。また、現代でも、英語圏では、“Oh, Jesus Christ !”が非常に悪い意味で使われていますが、サタンがそうさせていると言っても過言ではありません。私たちを愛して下さるお方、そして私たちが愛するひとの名前は大切に扱って当然です。そして名前を大切にする時、個人的な関係は、より一層深く、熱いものとなっていきます。主の御名によって祈るのは、クリスチャンの特権ですが、その時は、常に動機や思いを聖別しましょう。そのためにもパウロの奨め「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」(エペソ6:18)は大切です。

 機械文明が発達した今日、私たちには、もっとゆとりがあって良いはずなのに、いつも何かに追い立てられて忙しく走り回っているのが現状です。しかし、だからこそますます「安息日を覚えて、これを聖なる日と」して、せいいっぱい心を主に向けて聖日礼拝を守りましょう。主が伸ばしておられる愛の御手に触れて頂きましょう。「しかし律法を守る者は幸いである。」(箴言29:18)神様の愛ゆえに贈られた律法を守り、約束の祝福を相続して幸いな人生となるように、今日も聖霊様に求めていきましょう。


 私たちを愛して下さる主イエス様、あなたのみことばに立って日々の生活を送りたいのです。あなたが私たちを愛しておられるゆえに戒めが与えられていることをもっとわからせて下さい。でも自分の力だけでは守れませんから、聖霊様助けて下さい。イエス様、あなたの御名を大切にして、祈りのうちに、あなたの栄光を見ることができますように。尊い主の御名によってお願いします。アーメン

 

2001/12/20更新

 

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