トップページへ神の家族キリスト教会

 

もっと主に向くために

- 2002年1月20日 -

 村仲 俊朗 師

ルツ記1章〜4章

 ルツ記の舞台は、「さばきつかさが治めていたころ」(1:1)即ち士師の時代(「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(士師記21:25))です。神様がイスラエル人に約束された「広い良い地、乳と蜜の流れる地」(出エジプト3:8)であるカナンの地で、「パンの家」という意味のベツレヘムにききんが起きました。エリメレクの一家はパンを求めてモアブの野へ南下します。モアブは神様が忌み嫌われ、呪われた異教の地です(「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、はいることはできない。」(申命記23:3))。そこで暮らしているうちに、果たして不幸が訪れました。ナオミの夫エリメレクは死に、次いでふたりの息子マフロンとキルヨンもまた死んでしまったのです。私たちの祝福されたクリスチャン生活にも、必ず「ききん」のような危機が訪れます。それは忍耐の時なのですが、待ちきれず、神様を見上げずに下へ下へと下っていくと、決して良い結果を生まないというしるしです。
 ナオミは、まことの神様を礼拝する土地であるベツレヘムへ帰っていきます。いわばUターンです。祈りがきかれない時、失望しないで悔い改めて、正しい方向へ一歩を踏み出す、信仰のUターンは私たちにも必要なのです。ここでふたりの嫁のうちルツは、ナオミの強い説得に応じず、住み慣れた生まれ故郷の地を後にして、ベツレヘムに同行します。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(1:16〜17)これは従順の模範です。

 ベツレヘムに帰ったナオミは、「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。」と言います。マラは「苦い」という意味です。ナオミがまだ神様を見上げられずに自分の現状だけに目を留めている様子がうかがえます。これに対して、ルツは早速落ち穂拾いを始めました(2:2〜3)。自分でできる事を即実行に移して、献身的にしゅうとめナオミに仕えたのです。この姿勢を神様は御覧になっていました。ルツが働いた畑は「はからずも・・・ボアズの畑のうちで」(2:3)あり、「ちょうどその時」ボアズがやって来ました(2:4)。確かに律法で「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記23:22)と定められていましたが、それ以上の配慮をしてくれる(2:8〜9、15〜16)ボアズと巡り会ったのです。正に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:11)の御言葉通りです。ルツの献身からも学びましょう。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(1コリント15:58)

 そのような環境の中でナオミにも光が見えたのでしょう。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」(2:20)と言って、ひとを祝福できるまでに変えられていきました。ナオミの言う通り、主は死さえも支配されるお方です。イエス様は、会堂管理者ヤイロの娘(マルコ5:22〜43)も、ラザロ(ヨハネ11:1〜45)も、人間の目には手遅れと思われるような状況でも働かれて、よみがえらせました。神様のタイミングは完璧です。そして、「主は、大水の上にいます。」(詩篇29:3)とあるように、主は私たちを襲うどんな大きな問題をも支配され、そのただ中に着座されているのです。

 ルツ記は、「ボアズの子はオベデ、オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。」(4:21〜22)即ち、異邦人ルツが救い主イエス様の系図に加えられたところで締めくくられています。私たちの主、全能なるお方に信頼しきって、救いの御手に応答していく時、最善の恵みが用意されているのです。「ですから私たちは、いま見えるもの、すなわち、身の回りの苦しみには目をとめません。むしろ、今は見えない天にある喜びを望み見ているのです。苦しみは、やがて消え去ります。しかし、その喜びは、永遠に続くのです。」(2コリント4:18、リビングバイブル)


 主イエス様、私たちの人生の中に、どんなききんがやって来ても、あなたは共にいて下さいます。あなたを見上げ、あなたの元へ立ち返らせて下さい。この身をお捧げします。苦しみを聖霊様にあって平安と喜びに変えて下さい。天においても地においても一切の権威を持つ主の御名によってお願いします。アーメン。

 2002/01/21更新

 

先頭へ

戻る