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祝福の証明

- 2002年2月3日 -

 水野 明廣 師

出エジプト33:12-16

物の値打ちは何で決まると思いますか?

ある方がもう乗ることのできなくなったバイクに魅力を感じ、乗れないとわかっていて、35ドルで譲り受けました。それを自分で修理して何とか乗ることができるようにならないかと、製造番号からメーカーに問い合わせたところ、できるかどうか調べてみますという返事がきました。それから2,3日して、メーカーの方から電話があり、そのバイクを35万ドルで売ってくれと言ってきました。ビックリした当事者はその理由を聞きました。そのバイクは実はエルビス・プレスリーのために作られたものだったからです。

私たちの値打ちは何で決まりますか?地位ですか?名誉ですか?外見ですか?才能ですか?私たちの値打ちはただ、私たちが主のもの、主が十字架で流された血潮であがなわれた者であるから価値のあるものなのです。

クリスチャンの最大の祝福は「神が私たちと共におられる」ということです。それは、言葉だけのことではなく、真実です。ペンサコーラやトロントのリバイバルで人々は何を知ったと思いますか?それは「ここに神がおられる。」ということでした。神はいつでもどこでも、何を私たちがしていても共におられます。イエス・キリストがお生まれになった時、その名はインマヌエル(神は私たちと共におられる)と呼ばれると預言されました。教会や私達の集いに特徴があるとしたらそれは主が共におられるということです。

一方、主が共におられるということは恐れることでもあります。モーセがエジプトを出て、乳と蜜の流れる地に導く時、主を信頼して出てきたはずの民は数々のつぶやきを主にぶつけました。その結果民は40年間荒野をさまようことになり、その地に入ることができたのはエジプトを出て来た民の中ではヨシュアとカレブ、そして出て来た民の子供たちだけでした。ミリヤムがモーセに対してつぶやいた時、ミリヤムはライ病になりました。コラの民がつぶやいた時その地が割れて生きたまま地に飲み込まれました。祭司アロンの子、ナダブとアビフが主に異なった火を捧げた時、彼らは主の火で焼き尽くされました。主が共におられるということは、主に対するつぶやきをも主が聞かれるということです。

神は私達の思っている以上に私たちを知りたいと願っておられ、私たちが意識していても、いなくても主はいつも私たちと共におられます。詩編16章8節でダビデは「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」と告白しています。ダビデは愛し仕えていた王サウロに裏切られ命ねらわれても神が共におられることを知っていましたので、つぶやきませんでした。主がつぶやきを聞かれることを知っていたからでした。また、創世記39章には奴隷として兄弟に売られたヨセフもどんな状況でもつぶやかず主に信頼しました。その結果、長い試練の中でヨセフは砕かれましたが、主が与えられた賜物を用いてエジプトを治める者となりました。そして、自分を売った兄弟に対しても完全に許すことができました。神は愛する者を訓練されるのです。すべてのことは主のご計画であったことをヨセフは知ったのでした。悪をもって悪を報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、人々に祝福を与えていくとき、神もまた、私たちと共におられ、私たちを祝福されます。

聖書にある主に捧げる香油は特別に調合されたものでした。特別な油以外は調合に使ってはいけませんでした。それぞれの油には特に意味がありました。柔和・謙遜・真実・優しさ・感謝です。私たちも試練の中で、つぶやきではなく、主の前に喜ばれる心と言葉を香油のように捧げていきましょう。クリスチャンであるか、そうでないかの違いは、ただ主が共におられるか、おられないかの違いです。豊かで、無尽蔵の全知全能の神に栄光をお返ししていくならば、主はすべてのあらゆるものを私たちに与えることのできるお方です。主がいつも、どんなときにも私たちと共におられる事を忘れないで下さい。そして、主が共におられることを認め、つぶやかず、いつも歓迎し、賛美を捧げていきましょう。主が、私たちに必ず道を教え導いて下さいます。


 

 2002/02/05更新

 

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