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もっともっと深く、あなたを知りたい

- 2002年2月17日 -

 竹田 亮一 師

マルコ12:41-44, ローマ12:1

  ローマ書12章は「そういうわけですから」と始まっています。これは、パウロが1章から11章までに説いてきた内容、即ち、アダムの原罪によって希望のない罪人である我々のために、父なる神様がイエス・キリストによって神の義を啓示し、平安と、罪に打ち勝つ力を与えて下さったこと、この世では葛藤があるけれども、私たちは勝ち得て余りがある、圧倒的な勝利者であって、この福音はイスラエルのみならず全世界に及ぶことを受けていることを示します。今度は実際の信仰生活において、こんなに素晴らしいことをして下さった神様に、どのようにお応えしていくか、パウロは、実際的適用について述べ始めているのです。「神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」それは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」ということです。まさか、あなたの人肉を捧げよ、と言っていないことは明らかです。では、「聖い、生きた供え物」となる「あなたがたのからだ」とは何を指しているのでしょう。そうです。私そのもの、私の人生の全て、私が持っているもの全て、ということです。
  マルコの福音書12章で、イエス様が称賛されたやもめは、たった2レプタ、1コドラントを捧げたのでした。1コドラントは当時で一日当たりの日当の64分の一でしかありません。献金箱に入っても入らなくても全く影響しないほどの少額です。しかしそれは彼女が持っていた全てでした。彼女は神様への感謝に溢れていたに違いありません。だからこそ、「あるだけを全部、生活費の全部」を、後には何も残らないのに捧げきったのです。あるいは、この1コドラントは、神様が与えられたもの、本来自分のものではないから、お返しします、という思いだったのかもしれません。このやもめは神様に信頼しきっていました。今日、ここで全てを捧げてもまた与えて下さる、という全き信頼です。そして、この彼女の姿勢こそ正に、パウロのいう「聖い、生きた供え物」を捧げた「霊的な礼拝」です。

  J・パッカーという神学者は「礼拝とは、神の恵み・慈しみ・愛に対して心が反応すること」と定義しています。礼拝は、心の表現なのです。神様は、遙か遠いところにおられる支配者が十把一絡げで私たちに接しているのではなく、一人一人違った状況に応じて関係を持ち続けて下さるお方です。そして、私たち一人一人と共にいたい、もっと一緒に過ごしたい、あなたを知りたい、あなたに近づきたい、というのが神様の願っておられる事です。聖書も、掟をまとめた六法全書とか、教義・教理を述べ連ねた神学書ではありません。私たちと神様の関係が育まれるために書かれたラブレターなのです。
  今日、神様のほうから、「もっともっと深く、あなたを知りたい」と御手が差し出されています。私たちもそれに応えて、もう一歩近づこうではありませんか。人間はどんなに屈強であっても、一人では生きていけません。だからこそ、神様は「インマヌエル」〜神は私たちとともにおられる〜として御自分を啓示されたのです。男性の方は、例えば「もっと近くに抱き寄せて」と讃美する時、ちょっと抵抗があるかもしれません。では、幼かった頃、自分のお父さんに手を握ってもらった時の事を思い起こしてみて下さい。神様との距離はずっと縮まるでしょう。日々神様との交わりの中に生きてこそ、私たちは「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」を捧げて、「霊的な礼拝」をすることができるのです。


  主よ。私の値打ちとか、何かの見返りではなく、ただ一方的に愛して、恵んで下さることを感謝します。もっとあなたの愛を経験し、あなたの愛の中に生きて、ますますあなたの愛に基づいた信仰生活を送れますように。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 2002/02/19更新

 

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