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主が立ち上がられるため A

- 2002年3月3日 -

 水野 明廣 師

II コリント12:9-10, I コリント1:27-28, I テモテ1:15

  生まれつき人間は肉の性質をもっています。人は自分で自分を守りたいと思うし、また安全を手に入れたいと思います。お金や地位、健康、家族、預金、保険、様々な人間がつくったもので人は自分を守ろうとします。それはある意味では、良い家庭のなかで子供が育つためには安全であることが必要だからです。
  アブラハムは、主が生まれ故郷を出て、示された地ヘ行くようにと言われた命令に従って出て行きました。人のつくった安全をすべて放棄して、主にのみすがるほうをアブラハムは自分で選択しました。決して人が変わりに他の人の人生を選ぶことはできません。
  あるとき、アブラハムはソドムの王を助けました。王は、助けられたお礼をアブラハムにしようとしました。しかし、アブラハムは神からでた富以外の富に頼ることを拒みました。創世記14:23「糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つとらない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」
  私達は主に頼ります。私たちはお金や健康、資格があればそれを使いますが、それらに頼るわけではありません。主は私たちが富を持つことを喜ばれないのではなく、私たちが主よりも富に頼り、仕えることを喜ばれません。アブラハムは自分の選択で主に頼ることを選んでいきました。私たちが弱さの中で主に頼る時、主は人知をはるかに超えた祝福を与えられます。

  一方、自分自身の選択とは別に、弱さの中に置かれる場合があります。アブラハムは年を取り、子供を授かることができる年齢を越えても、なかなか約束された子孫を得ることはできませんでした。しかし、人間的には不可能と思われるときに主はイサクを与えられました。愛の人ヨハネも、パトモスに流されてそこで黙示録の幻を与えられました。
  人間の絶望は神のチャンスなのです。絶望の渕で私たちの肉は静まり、主のみが私たちに働くことができるようになります。失望からだと、人間は自力で這い上がろうとします。そのため、神は私たちを絶望の渕に置かれることがあります。しかし、それは祝福のためです。エジプトから逃れたモーセとその民は海の前で、後ろにエジプトの軍がせまっているのに、逃げ場がなくなるという絶望の状況に追い込まれました。モーセは叫ぶ民に対して言いました。創世記14:14「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」肉が静まり神にのみより頼んだ時、目の前の海がまっぷたつに割れました。

  主は弱い人に格別に働かれます。ピリピ2:6-8「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」ですから、私たちの弱さを良くご存知です。イエス・キリストにならってください。「わたしのために命を失うものは命を見出します。」 私たち自身の肉が静まる時、全能なる主が立ち上がってくださいます。ギデオンは神の勇士といわれました。しかしギデオンは一族の中でもっとも弱い家族であり、その中で最も若い者でした。しかし、ギデオンが弱さのなかにあっても主により頼んだ時、主がギデオンに働かれました。II コリント12:9-10「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
  ギデオンたちは敵の陣営にたいまつをつぼの中に入れて持っていきました。戦う時、そのつぼを割り、中からたいまつを取り出して敵の陣営を討ち取りました。私たちは土の器です。ギデオンたちがつぼを割って戦ったのと同じように、土の器が砕かれるとき、中のたいまつが輝き出ます。私たちの肉が砕かれる時、主の光、主ご自身が輝き出てくださるのです。内なる主、聖霊様、イエスキリストに頼っていきましょう。


 

 2002/03/07更新

 

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