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もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです

- 2002年3月10日 -

 禹 浩鉉 師

ガラテヤ人への手紙 2:20

 聖書は神のことばであり、天のいのちと祝福をもたらす人生のガイドブックです。私たちが聖書を難しく感じたり、理解に苦しむ最大の原因は、神の価値観と人間の価値観の相違にあります。ヨブの物語も、人間の価値観では納得できない聖書の物語の一つではないでしょうか。ヨブは神に誉められた人物でありながら、大変な試練にあいました。ヨブは潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人でした(ヨブ記1:1,2:3)。しかし神は、サタンがヨブに耐えられないような非常な試練をもたらすことを許されました。どうしてこんな試練にあうのか理由も分からず、先の見えない絶望の暗闇の中でも、彼は試練を信仰で受け止め、神を恐れ敬い、主の前にへりくだって「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と神を誉めたたえました。このヨブの姿こそ自分に死んだ姿です。

 「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」 (マタイ10:39)。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」 (マタイ16:26)。人間は自分の考えや思いに執着し、それを捨てることが苦手です。自分の思いどおりになることが幸せになるとは限らないと分かっていても、自分の考えにこだわり、これを押し通したいのです。自分の価値観で真理に盲目のまま生きればつまづき、道に迷います。
  しかし、神の価値観を受け入れて生きる人は聖書の真理を知ることができます。人間の価値観はこの世の価値観であり、そこにはサタンがもたらした偽りの価値観が多くあります。そのようなものに振り回されて生きていけば、真理を知ることはできないし、本当の祝福を体験することはできません。私が死に、キリストが私のうちに生きておられることを実際に体験していくことが信仰生活です。これは理屈や知識としてでなく、私の内におられる聖霊様を体験的に知ることです。私たちが立派だから、尊い聖霊様が内におられるのではありません。土の器にすぎない私たちの内に聖霊様が住まわれることが、神の御心なのです。私たちの内で働いておられる主は、私たちが生きている環境の中でも働いておられます。神は環境を支配され、環境を通して私たちを試みられます。私たちの環境にどんな苦しみがあっても、「それでも神は愛です。」と告白しましょう。
  イエス様はある金持ちに、持ち物をすべて売り払ってわたしについてきなさいといわれました(ルカ18:22)。イエス様は、彼が自分は完全になれない弱さを持つものだということを悟らせ、イエス様について来る道しかないことを教えようとされたのです。イエス様に従う道が、唯一最善の道です。キリストは、まず失うように働かれ、失った後で回復してくださり、本当のものを得るようになさいます。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」 (マタイ16:25)。ヨブはすべてを失いましたが、神は彼の後の半生をもっと祝福されました。「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」(ヤコブ5:11)。

  自分のこだわりを捨てて、主から来たもの、主が下さるものだけにこだわりましょう。また、この世の価値観から解放されて、聖書の語る神の価値観で生きましょう。試練を通してこそ自分に死に、まさにキリストがわたしのうちで生き生きとしてくるのを体験できるのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)


 

 2002/03/12更新

 

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