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イースター礼拝 『主にお目にかかりました』

- 2002年3月31日 -

 水野 明廣 師

ヨハネ20:18

  ここに登場するマグダラのマリヤについては、「さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。」(マルコ16:9)とあります。彼女は悪霊に取り憑かれ、惨めで苦しく、大変苦しい生活を送っていました。ところが、イエス様にお目にかかり、いやされ、解放されて、人生が一変して、新しいいのちの歩みを始めていたのです。
   マリヤは、もうイエス様に夢中だったでしょう。ですから彼女は「イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」のです(ルカ7:37〜38)。
  そのイエス様がこともあろうに十字架で死なれ、葬られてしまいました。「ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。」(ルカ23:55)この「見届けた」、原語でtheaomaiは、ただ呆然と見ていたのではなく、真剣に、ひたすら見続けていた、という意味です。マリヤは、一心に主イエス様を慕っていました。だからこそ「よみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた」のです。もっともっと真剣に、主を慕い求めて下さい。その真摯な、熱心な信仰に応えて、主は御自身を現して下さるのです。「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6:3)「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:13)
  「マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに」墓に来ました(ヨハネ20:1)。起床してすぐの早朝は、一日のうちで、最も大切な時間と言っても過言ではありません。「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」(詩篇5:3)「朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。」(詩篇88:13)イエス様も「朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」のです(マルコ1:35)。私たちも、一日の始まりに、まず主を求める習慣をつけましょう。

  マリヤは、自ら進んで墓にやって来たのと対照的に、「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」のです(ヨハネ20:19)。マリヤは人を恐れませんでした。このような大胆さは、生きておられる主イエス様に出会ったからこそ与えられるものです。この時逃げ隠れしていた弟子たちも、復活の主に出会って変えられていきました。「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」(使徒4:33)ペテロもヨハネも、迫害の中でもはっきりと「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」と証しができたのです。私たちもこの世にあってキリストの証人です。旗幟鮮明に、大胆に、主イエス様を証ししていきましょう。
  単に「キリスト教」という宗教を奉じている人と、本物のクリスチャンとの違いは、私たちの罪の呪いを一身に背負って十字架で死なれ、三日目によみがえられた主イエス様と、本当に出会う体験をしているか否かです。旧約聖書では主を知らないままで過ごすことは滅びにつながると警告されています。「それゆえ、わが民は(神への)無知のために捕え移される(英語詳訳: Therefore My people go into captivity without knowledge of God.)。」(イザヤ5:13)あのヨブは、何もかも失って、失望と疑問が渦巻いている、そんな状況の中で主の御声をきき、心から「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(ヨブ42:5〜6)と告白できました。生粋のパリサイ人だったサウロは、イエス様に出会って180度の転換を遂げ、パウロとなってこう言いました「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:8)。今も生きておられる主イエス様との出会い、主を本当に知ることの有無は、天と地ほどの差を生じるのです。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)全世界で主の復活をお祝いする、このイースターの日に、私たちは、今一度、真剣に主を慕い求め、主に出会い、新たな一歩を踏み出そうではありませんか。


 主イエス様、あなたはきょうも、今も生きておられます。あなたをもっと慕い求めます。あなたの十字架は、失敗と敗北ではなく、勝利と栄光のしるしです。イエス様の復活のいのちの恵みによって、強く、雄々しく立たしめて下さい。主の御名によってお願いします。アーメン。

 2002/04/03更新

 

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