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主よ立ち上がってください (2)

- 2002年4月14日 -

 水野 明廣 師

詩篇 4:3-5:7

  ダビデはいつも主に心を向け、主との時を過ごすこと、すなわち祈りをいのちとしていました。また、イエス様は過去において、よく荒野に退いて祈っておられました(ルカ5:16)。そして、今も私たちのためにとりなして祈っておられます(ローマ8:34、ヘブル 7:25)。教会は祈りの家です(イザヤ 56:7)。私たち二人、三人が集まって主の御名によって祈るとき、そこが教会なのです。私たちが絶えず祈ることを、神は望んでおられます(I テサロニケ 5:17〜18)。祈りは私たちが神の子として生きている証なのです。祈りが私たちのいのちであるにもかかわらず、あまりにもこれをおろそかにしてしまってはいないでしょうか。私たちが祈らない理由として次のようなことがあります。

1)「私のようなものが祈ってもなにも変わらないのではないか。」
 これは間違った思い込みです。私たちの祈りは、神の御座にかぐわしい香りとなって上っています(黙示 5:8)。

2)「祈ったが、神は答えてくださらなかった。」
 主は失望しないで祈り続けるように教えておられます。すぐに答えが得られなくてもあきらめてはいけません。時があります。

3)「私には祈る資格がない。」
 私たちはふさわしい者でなくても、イエス・キリストの御名によって大胆に恵みの御座に近づくことができるのです(ヘブル 4:16)。

4)「私は今の生活に満足していて、祈りの必要を切実に感じない。」
 主はラオデキヤの教会に”あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないといって、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない(黙示 3:17)“。と言われました。今の日本はラオデキヤのようではないでしょうか。

  今のイスラエルの状況よりも本当は日本のほうがもっと悲惨なのかもしれません。本当に豊かな人とは神に心を向けている人です。地上での人生は永遠の神の国に比べたらほんの一瞬にしかすぎません。どんなにこの世で豊かになり、健康であり、栄えてもこれらは過ぎ去ってしまいます。これらのものが私たちが神に心を向けることの妨げになって、祈らないとしたら愚かなことです。

 ダビデが犯してしまった最大の罪は主から目を離し、自分自身の力に目を奪われて、自分の軍隊の数を数えたことです。わずかなものしか持たなくても主により頼む人は幸いです。大切なことはいのちの源である神とのつながりをしっかり持っていることです。祈りはクリスチャンの呼吸、生きている証です。

 では私たちは何を祈ったらよいでしょうか。私たちは神の祝福を相続し、人々の祝福を祈るために召されました。次のお祈りを自分と家族や他の人々のために毎日してください。

I. 『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
      主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
      主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』

II.ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。
   「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。
     御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて
     私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」

 今日から私たちは祈りの祭壇を築きなおし、祈りの家としての教会の本来の姿を取り戻しましょう。


 

 2002/04/17更新

 

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