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私はあなたの恵みに拠り頼みました

- 2002年7月7日 -

 水野 明廣 師

詩篇13:3-6

  主は恵み深く、いつくしみ豊かです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で死なれました。それは私たちを神の恵みの下で生かすためです。ですから、イエス様は私たちに良い物を下さる方です。ヨハネの福音書1:16「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」詩篇34:8「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」

  パウロはイエス・キリストが神の御子であることを悟らず、教会を迫害しました。しかし、イエス・キリストが神の御子であることを知り、救われてから、パウロは告白しています。自分は罪人の頭であったのに、神の恵みによって今の自分になれたことを。死を覚悟しなければならないほどの数々の試練を通ったあと、主の恵みがあったから、その中を生かされてきた事を悟るとき、人はそれを語らずにはいられません。
  ある牧師は以前は、麻薬密売人であり、皆から憎まれていました。しかし、イエス・キリストが主であることを知り、自分の罪を悔い改めて救われ、牧師に召されました。今、彼は神の恵みをパウロのようによく知っています。

  私(水野牧師)も思い起こせば数々の主の恵みにあずかっています。両親に献身することを話したときは責められ、なじられ、殴られもしました。しかし、いっさいそれらのことで両親を恨む気持ちにはなりませんでした。これは神の恵みだと思っています。また、カナダの神学校にいくときには、税関では学生ビザがないからと許可されませんでしたが、思いもよらずカナダ政府から直接ビザの許可を得ることもできました。カナダで学んだ後、日本に帰り、教会をたてあげていくことを楽しみにしていました。しかし、帰国してみると、協力者も得られず、一人きりで、伝道に出かけなければなりませんでした。貰い物の小さい天幕とベンチとで駅前で伝道し、ちらしや食事もすべて“つけ”で済ましていました。詩篇10:1「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。」にあるように、まるで主が自分を見放し、それが永遠に続くように思われました。ひと月たっても収入のあてはありませんでした。とうとう支払いの時がやってきました。請求書の前で途方にくれていました。その日、全く見ず知らずの人が封筒をもって入ってきました。その中には1万円がはいっていました。もう30年近くも前のことです。その人とはそれ以来あったことがありません。しかし、神は生きておられること、神の恵みを実感した出来事でした。
  また、教会を建てようと思った時もお金はありませんでした。しかし思いもかけず、北海道のある団体から献金を得ることができました。また、二つ目の教会の土地を購入しようと思いました。しかしその時もお金はありませんでした。その時は、二人のご婦人が「このお金が私の持ち物の全てです。」といって大金を献金され、その土地を購入することができました。このように数々の試練を通して、恵みの中を生かされたことを感謝しています。
  人に期待し、人を見るとき、哀しみや失望しかありません。しかし私たちは主を見上げます。恵みに拠り頼むとはどういうことでしょうか?神様が私たちを愛し、認め、受け入れてくださるということを信じ、自分の業績や能力や実績にたよらず、主が立ち上がってくださり、神の時に、一番良いように導いて下さることを知っていることです。

  イエス・キリストの十字架のゆえに私たちは罪がゆるされ、のろいから解放され、恵みをうけることができます。私たちが救われたことが何よりの恵みです。私たちが主にすがっていくとき、主が立ち上がってくださいます。私たちには神の恵みが豊かにあります。祈ること、礼拝すること、断食することは私たちの特権で、神の恵みに拠り頼む人は、その特権が恵みそのものであることを知っています。
主の恵みを無駄にしないようにしてください。
  主の救いの恵みを喜び、主に拠りすがって生きていきましょう。


 

 2002/07/11更新

 

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