トップページへ神の家族キリスト教会

 

私はいつも、私の前に主を置いた

- 2002年7月28日 -

 水野 明廣 師

詩篇16:6-11

  詩篇16:8はとても大切なことだと思います。「私はいつも、私の前に主を置いた。」ここで3つのことを申し上げたいと思います。「私は」「いつも」「私の前に主を置いた。」という点です。皆さんの毎日の生活の中で色々な出来事が起きてきます。良い事ならいいですが予期しないとんでもない事が起こります。どうしてこんな事が起こるのか、全部避けれたらいいのですが、しかし、それを通して神様が何かしておられる事を感じます。

 「私はいつも、私の前に主を置いた。」これは非常に大きな意味があります。今、改めて感じています。悲しいときも楽しいときも、いつも私の前に主がいた。何が起きてもそれでも「主よ、あなたを信じます。」と。クリスチャン生活の中で、なるようにしかならないという諦めた人生とはまったく違うことを覚えていてください。一つ一つの自分の中の悲しい出来事で、それによってたくさんの人々が信仰を持たれたのです。自分の思っていることが起こるのではなくて、神様はもっと偉大な素晴らしいことをしてくださるのです。主はよいお方、よい方へと働いておられます。皆さん自身が「本当にイエス様、あなたが私の前におられるのですね、私の喜びも悲しみもご存知なのですね。」いつも私の前に主を置く、これは大事なことです。

  箴言3:6「あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」もし私たちにたかぶりがあれば神様は悲しまれる、イエス様がともにおられるという思いは人を非難したり、さげすんだり、ののしったりすることはできません。「あなたこそ私の幸せです。あなたは私の拠所です。」そのように主に申し上げるときに主はあなたを支えて下さいます。

「主が私の右におられるので私は揺ることがない。」主が私の前におられることを認めるときの、コリントII 3:16「主に向くならば」と。ときどき私たちは主に向かないときがあります。私たちクリスチャンが信仰によって私の前に主はいる。私たちの人生の中で主が私たちの前におられると思うなら罪からも守られます。私たちが主を認めないと、家庭でも職場でもいっしょに主がおられるんだということを無視したとたんに、私たちは自ら自分を危険の中に置いてしまうのです。

  主の素晴らしさ、主が共におられることで何が起きているか・・ゆらぐことだけではなく、主の御前にいることこそ、主のところこそ実は私の心は喜び、魂は楽しんでいるのです。まさに人間の心、魂、体、3つ持っている人間の人格の、すべてが主の前にでることで充実な人生を送ることが出来るのです。自分の意志で「主はいつも私の前におられる」と認めることで主は私の人生を支えて下さるのです。主が下さる喜び、主が下さる楽しみ、主からくる平安、これは実は私が主はいつも私の前におくことから来ます。

  皆さん、時々困ったときだけ主を置かないで下さい。いつもいつも言葉にして主に申し上げてください。「あなたこそ私の主です。あなたこそ私の喜びです。私の力です。」職業的に必要なら主は能力を与えて下さいます。主はあなたに良いご計画を与えて下さいます。「主よ、あなたこそ私の避けどころです。私の力です。あなたこそ私の救い主です。」とはっきり申し上げて自分の前に主を置いて、そういう生活の中で主は与えて下さいます。満たしてくださいます。この世のサタンがしていることは主に注目することを反らせる事です。平凡なこと、楽しいこと、うれしい事、事業の成功の事、そんなことでもし主から心が放れたら、それこそ不幸なことです。もっと不幸なことは主から目が放れている事です。


  愛して下さるイエス様、あなたはあまりにも麗しく、素晴らしいお方です。私は自分で決断します。意思で私が私自身によってあなたこそ私の主で私の前におられます。認めていきます。信仰によってあなたに語ります。聞いておられるからです。いつもあなたご自身を、イエス様ご自身を前において生きていけますように聖霊様助けてください。主よ、死ぬ間際に喜び、悲しみ、平安が私をおさめますようにイエス様の御名によってお願いします。アーメン

 2002/08/01更新

 

先頭へ

戻る