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嵐を静める

- 2002年9月1日 -

 水野 明廣 師

ルカ8:23-26

   イエス・キリストの十字架の救いを信じ、受け入れても、試練が全く無くなるわけではありません。時として嵐を通らされるようなことがあります。それは私たちが絶望の中で主と出会い、私たちの罪を贖ってくださったイエス・キリストの十字架の愛を知り、主により頼んで行く事を知る必要があるからです。その時、主は絶望の渕から叫び求める私たちに御手を伸ばされます。

  イエス様を乗せた船はゲラサという所へ行く途中にありました。船に乗る前、イエス様はいやしや解放、死も無効にされる奇跡を行なわれました。湖を渡る船の中でイエス様は疲れて船の中でぐっすりとお休みになりました。しかし、嵐がおこり、風も波も荒くなり、弟子達のなかには海に慣れ親しんだ漁師出身の人々ともいましたが、とうとう手を尽くしても船は沈みそうになりました。死の危険が間近にせまったとき、初めて弟子達はぐっすりとお休みになられていたイエスのもとへ行き、助けを求めました。
  このことは私たちに大切なことを教えています。弟子達は、船に乗る前、数々の奇跡を目の当たりにしていました。しかし、彼らは嵐の中で、自分たちの力と知恵を使い果たし、死の危険のなかで絶望しました。それから初めて主により頼みました。その時、主は風と荒波をしかりつけられ、嵐を静められたのです。ルカ8:25「イエスは彼らに、『あなたがたの信仰はどこにあるのです。』と言われた。」 神様は私たちが絶望の中で心の奥底から叫び求める祈りを聞きとどけられます。なぜ、絶望されるまで私たちに御手を伸ばされないのでしょうか。それは、すべての事を完成されるのは神であるということを、私たちが知るためです。

  嵐の中を通らされる時、私たちは主と出会うことがどうしても必要になります。話を聞いて知っているわけでもなく、誰かが知っていたので、自分も知っていた気がするのでもなく、それぞれが主ご自身と出会い、主の前ではただ主の愛によって生かされ、すべてを主により頼んでいく必要があるということを知るためです。私たちの主イエス・キリストは、風も水もお命じになれば従う権力をもった方です。日々私たちは主を仰ぎ見て、主から新しい命と満たしを受け、自由と解放を得ていきましょう。
  主は心から渇いている人を満たしたいと願っておられます。この世の楽しみや快楽で渇きを満たそうとする人がいますが、決して満たしきれません。そればかりでなく、神様が満たそうとされる機会を失ってしまいます。渇きを潤してくださるのは、主が与えてくださる、渇くことのない、いのちの水だけです。

1.クリスチャン人生において、時として嵐にあうことがあります。
2.嵐は、私がどんな信仰をもっているか、主が私に悟らせるために備えられています。ですから、私たちが絶えられないような試練に会わされることはありません。                   
3.イエス様が、私自身を誰よりも愛してくださることを知り、どんな場所においても、どんな時でも、どんな場合でも主を呼び求めることが必要です。

  日々、主に求めていきましょう。イエス様が私たちの力です。イエス様が私たちの喜びです。日々主に出会い、どんな状況でもすべてを主により頼んでいきましょう。必ず、主イエス・キリストは風と荒波をしかりつけられ、嵐を静められます。


 

 2002年9月3日更新

 

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