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主の御名を誇ろう

- 2002年9月8日 -

 水野 明廣 師

詩篇 20:6-8

 私たちが主の御名の権威に預かるためには、主の油注ぎが必要です。スケワの息子たちは、油注ぎがないまま、パウロのまねをして主の御名を用い、大失敗しました。(使徒 19:12-16参照)
 主の油注ぎによって、神に召され、召しの務めをするための能力が与えられるのです。ダビデは人生の節目に三回の顕著な油注ぎを受けました。最初は、神に召されるとき、サムエルによって油注がれ、主の霊が激しくダビデに下りました。(I サムエル 16:13参照)次に、ユダの人々が彼に油を注いでユダの王とし、(II サムエル 2:4参照)また、イスラエルの全長老たちが、彼に油を注いでイスラエルの王となりました。(II サムエル 3:5参照)ダビデは王の権威、軍隊、自分の能力など、どんなものよりも主の油注ぎが大切だということを知り、そのことがわかったと告白しました。“今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。(詩篇 20:6)”。

 聖霊の油注ぎの意味の一つは、私たちをキリストのうちに堅く保ち、キリストのものとして確認の印を押してくださるということです。(II コリント 1:21-22参照)
 また、聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。(エペソ 1:13-14)聖霊は私たちが天国に入国するための保証書です。保証書を持っておられますか?持っている人は幸いです。
 ではどんな人が油注ぎを受けることができるのでしょうか?それは主に心からすがる人です。私たちは苦しみや悲しみ、絶望の中で主に本当にすがるようになります。ヤコブが人生に行き詰まり、疲れ果てて一夜を過ごしたところがルズでした。ルズとは“思いどおりにいかない”という意味です。しかし、ヤコブはそこで神に出会い、そこに石の柱を立て、油を注いでその場所をベテルすなわち“神の家”と呼びました。(創世記 28章参照)
 聖霊の油注ぎが、ルズをベテルに変えました。聖霊の油注ぎがなければ、つらく苦しい体験は私たちの人生をゆがめてしまいます。クリスチャンであってもルズにとどまり続けてしまう大きな原因は、聖霊の油注ぎがないからです。カウンセリングも聖霊様によらなければ、根本的な解決にはなりません。本当のカウンセラーは聖霊様ご自身です。聖霊様が私たちをキリストの姿に変えてくださるのです。(II コリント 3:18参照)人を変えるのは聖霊様です。だから私たちは聖霊様に働いていただくために祈るのです。
 約20年後、再びヤコブがベテルにきたとき、彼は自分の名をイスラエルと呼び、そこでもう一度、石の柱を立てて油を注ぎました。(創世記 35章参照)油注ぎを受けて初めて、ヤコブは自ら、人々の前で、自分はイスラエルだと宣言できるようになりました。私たちが油そそぎを受けると、どんな人の前でも臆することなく「クリスチャンです。」と言えるようになります。

 主に油注がれた人が信仰を持って、キリストの御名によって祈る時に力があるのです。イエス様も神の油注ぎによって数々の力ある業をなされました。“神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。”(イザヤ 61:1-3)
 私たちが油注ぎを受ける目的は、自分が変えられるだけでなく、福音を伝えるためであり、人々を癒し解放する主の務めをするためです。主は聖霊を求める人、聖霊にすがる人を満たしてくださいます。もっと聖霊に満たされるように、また満たされ続けるように祈っていきましょう。


 

 2002年9月12日更新

 

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