トップページへ神の家族キリスト教会

 

主が御力を現して下さるために

- 2002年9月29日 -

 禹 浩鉉 師

2 歴代誌 16:7-10

  私たちの人生には、幸せを邪魔し、妨げるものがいっぱいあります。誰でも一度は「ピンチだ!どうしよう。神様、助けて下さい。今この時、奇蹟を起こして下さい!」と祈った経験があるでしょう。既成の体制がひっくり返って、世の中が不安定になると宗教ブームが起こります。一般の人なら藁にもすがる思いで神社仏閣のハシゴをするところでしょうが、私たちクリスチャンには、まことの神であられる救い主イエス・キリストがおられます。しかし、クリスチャンだからといって安穏としてはおられません。罪赦された確信がある時には平安でも、罪が満ちていると不安になります。聖書には、「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」(2 テサロニケ9-10)との警告があります。多くの人々はサタンに惑わされて偽りの教えについていきますが、その結末は滅びです。私たちもしっかりと主に結びついていないと、「滅びる人たち」の仲間入りをする可能性があるのです。

  2 歴代誌の14章から登場するアサ王は、ソロモンのひ孫にあたる人物です。若くして南ユダ王国の王となりましたが、しっかりと信仰に立っており、王国の宗教改革を実行した人でした(14:2-5、15:8)。クシュ人の百万の大軍勢に攻め込まれた際に彼は主に叫び求めました。「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。」(14:11)主が立ち上がっておられるというしるしは何もありませんでした。それでも主に信頼し、主のにのみ拠り頼んだ結果、「主はアサの前とユダの前に、クシュ人を打ち破られた」のです(14:12)
  すると、預言者アザルヤに主のおことばが下りました。「アサおよび、すべてユダとベニヤミンの人々よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。」(15:2)どんな状況や環境の中でも、そして自分の思い通りには事が運ばない時でも、固く信仰に立って、主にしっかりと結びついていれば、主が私たちから離れて行かれることは決してありません。「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:39)
  アサ王のもとに繁栄した南ユダ王国には、北イスラエルから、その国力を頼ってたくさんの難民が押し寄せてきました(15:9)。そのためイスラエルの王バシャは、国民の流出を防ぐために、ラマの要塞を築きました。これを知ったアサ王は、隣国アラムの王に貢ぎ物を贈って同盟を結びました。彼は預言者の警告を無視して、人間的な方法で事態を打開しようとしたのです。アラムは、確かにアサ王の思い通りに動きましたが、かえってこれは隣国の軍備を増強させてしまいました。神様ではなく利益で人を裏切るようなアラムの王を信頼したのは、いわばサタンにこちらから手を貸してしまったようなものです。ここに、私たちは重大な警告を読みとるのです

  予見者ハナニはこう預言しました。「神様は地上をあまねく見渡して、心を完全に神様に向けている人々を、探し求めておられます。そのような人々を助けようと、大きな力を現してくださるのです。」(16:9 リビングバイブル訳)どんな状況でも、主なる神様に心を完全に向けて、主を信頼し続けること、これが、私たちの課題です。いのちのことばである約束のみことばをしっかり握って、天地万物を創造し、今も見守っておられる神様に拠り頼んで、確信と平安の中で信仰の一歩を踏み出すのです。そのような時は、しるしを求めなくても、環境が自ずから変わっていくのを見るでしょう。「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。・・・もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。」(申命記28:1, 2, 15)環境に左右されず、徹底して御声に聞き従うかどうかが、大いなる祝福を得られるか、逃してしまうかの分水嶺です。そして、それは、自分だけでなく、家族子孫にまで及びます。「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(申命記5:10)
  「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)自分の選択が必ずしも最善ではありません。そして、恵みを受け取ることを、神様は私たちに強制はされません。しかし、困難な時にこそ主に拠り頼んで、祝福といのちを選びとっていくことを神様は望んでおられます。私たちが真実なものを見分けられるようになるには時間がかかります。基準になるのは、まずみことばです。そして、私たちは成長の過程で、主の御業を妨げるものは断固として取り除いていく必要があります。

  ルカの福音書1章には対照的な二人のことが描かれています。祭司ザカリヤは妻エリサベツの懐妊を御使いから知らされても、人間的な考えでそれを疑ってしまい、「ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。」と言われ、ヨハネが産まれる後までおしになってしまいました(ルカ1:20)。これに対して処女マリヤは天使ガブリエルのことばに「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と答えました(ルカ1:31)。自分の頭で理解したり、納得してからではなく、まず信仰で受け取って、信仰で一歩踏み出すのです。そのときにこそ、神様の御計画が明らかになります。

  私たちはアサ王のあやまちを繰り返してはいけません。クリスチャンの信仰には四段階があります。第一は「私のために主がおられて御業をなされる。」つまり御利益信仰です。そこから、いろいろなところを通らされ、導かれて、主に従うようになるのが第二段階です。もう一段階進むと、主のために生きるという、献身の信仰となり、究極は主のために死ぬ、殉教者の信仰です。私たちの信仰のステップはそれぞれ違いますが、全能の神、主は、たとえ自分の思い通りでないように見えても、全てを益として下さお方です。過去を変えることは出来ません。過去は断ち切って、どんな時にも、さらに主を見上げて前進しましょう。


 

 2002年10月1日更新

 

先頭へ

戻る