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賛美に働かれる主

- 2002年10月20日 -

 水野 明廣 師

詩篇 22編

  冒頭の「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」は、ダビデが心の底からふりしぼって放った叫びですが、これはイエス様の十字架上での七つのおことばの一つでもあります(マタイ 27:46、マルコ 15:34)。「わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」本当に行き詰まり、壁にぶつかって、倒れそうな、どん底の状況、神様に見捨てられたかのような境遇でさらにダビデは歌います。「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」ダビデは、主が賛美を住まいとされ、賛美の中で働かれることを知っていたのです。

  賛美は楽しい、恵まれる・・・確かにそうでしょう。しかし、賛美は目的ではありません。賛美は、神様の素晴らしさ、御臨在、栄光を現すために、神様から私たちに与えられた道の一つなのです。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル 13:15)賛美は神様に捧げるいけにえです。私たちの意志や感情に関わらず、高価で尊い犠牲を払うのです。
  シオンが苦難の最中にある時、預言者イザヤには主はこう仰せられました「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。」(イザヤ 54:1)「エルサレムの城壁再建で民が疲弊しているその真っ只中で預言者ゼカリヤに主は言われました「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。」(ゼカリヤ 1:10)つらくて苦しい、助けも来ないし、いつまで待たされるのかわからない状況、手に負えない問題や取り返しのつかない事態の真っ只中で、私たちが賛美のいけにえを捧げると、神様が立ち上がって下さいます。神様は、私たちが悩み苦しんでいるのを無視してはおられません。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」(イザヤ 63:9)とあるように、父なる神様のほうがよけいに涙を流しておられるのです。神様が働かれる場であり、また同時に人を変える力もあるのが賛美です。
  ヨシャパテ王は、モアブ人とアモン人のおびただしい大軍を前にして、賛美する者たちを兵の前に出して「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と歌わせました。すると「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」(2 歴代誌 20:21-22)ヨナは魚の腹の中で悔い改め、「しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。」と歌いました。すると、「主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。」(ヨナ 2:9-10)奥の牢に入れられ、足に足かせを掛けられたパウロとシラスが「神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、」「突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった」だけではなく「看守・・・とその家の者全部がバプテスマを受けた。」という奇蹟が起こりました(使徒16章)。
  このように素晴らしい賛美ですが、私たちが間違った態度や思いから自分勝手な賛美を捧げても神様はお喜びになりません。サウル王は勝手に全焼のいけにえを捧げたために王位から退けられました(1 サムエル 13:9-14、15:22-23)。ダビデが、主の箱をエルサレムに運び入れる時、祭司しか着てはならない亜麻布のエポデを身にまとっていたことは、彼の人生最大の罪でした(2 サムエル記 5:14)。ウジヤ王は定めに従わず、忠告する祭司を振り切って、神殿で香をたこうとしたところ「その祭司たちの前、主の神殿の中、香の壇のかたわらで、突然、彼の額にらい病が現われた。・・・主が彼を打たれたからである。」(2 歴代誌26:19-20)
  賛美を捧げるのはクリスチャンの特権であると共に、私たちが主に差し上げられる唯一の物が賛美です。上手下手は関係ありません。賛美の中に主が住まわれます。せいいっぱい主に心を向けて、自分の言葉で主を賛美しましょう。


  主なる神様、私が生きている限り、どんな状況でもあなたに心を向けて賛美のいけにえ、くちびるの果実を捧げます。賛美の霊で私を覆って下さい。そしてあなたが立ち上がって下さい。イエス様の御名によってお願いします。アーメン。

 2002年10月22日更新

 

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水野 明廣 師