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主イエス・キリストについていく人

- 2002年11月17日 -

 水野 明廣 師

詩篇 23編 ・ ヨハネ 8:31-32

  旧約聖書には、私たちを羊、主なる神様を羊飼いになぞらえている箇所がいくつもあります。
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ40:11)
「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。」(エゼキエル34:11〜12)

  しかし私たち日本人にとって、羊と羊飼いは、あまり馴染みのない存在です。詩篇23編を読むと、揃って羊飼いの後についていく羊の群れを思い浮かべますが、羊は、決して自分から羊飼いの後を従順についていくことはありません。放っておくと、横道に逸れてとんでもない方向に向かって行き、いなくなってしまうこともあります。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ53:6)の通りです。羊飼いは群れの先頭ではなく、後ろから吠える犬を使って群れを導きます。そして、羊は羊飼いと一緒にいて初めて安全なのです。

  「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ2:6〜7)イエス様は、人間の問題・悩み・苦しみ・痛み・悲しみ・辱めを自ら経験されるために、そして人々を罪から解放して救うために、人、それも一番弱くて貧しいしもべとなって天から来られました。洗礼者ヨハネはイエスが来られるのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と言いました(ヨハネ1:29)。そしてこの小羊は「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(黙示録7:17)
  イエス様は、御自分で二度繰り返して「わたしは良い牧者です。」と言っておられます(ヨハネ10:11、10:14)。イエス様は、私たちを導き、養い、育て、守って下さるだけでなく、御自分のいのちで私たちを贖い出して下さいました。「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)正にその通りです。牧者であられるイエス様と、羊である私たちの関係はどのようなものでしょうか。「わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」(ヨハネ10:14)「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)イエス様が、私たち一人一人を御存知で、私たちもイエス様と個人的な深い交わりがあって、イエス様に従順するのがクリスチャンの信仰生活です。私たちは、実際の羊のように道を外して、迷いやすい弱い存在です。ですからイエス様はこれも二度繰り返して「わたしにとどまりなさい。」とおっしゃいました(ヨハネ15:4、15:9)。
  そしてイエス様は自ら、私たちと共におられることを望まれました。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)イエス様の内にとどまるには祈りが不可欠です。「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:41、マルコ14:31)

  主イエス様は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束されました。私たちは、共にいて下さる「永遠の契約の血による羊の大牧者」(ヘブル13:20)を認め、自分から従順についていくことが大切です。
  「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31〜32)いつも私たちが主イエス様の内にとどまって、主が共にいて下さるから、私たちは解放されて自由なのです。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)そしてイエス様と共に、みことばの通りに歩むのです。
  「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(1コリント10:31)「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:23)「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(1テサロニケ4:11)私たちクリスチャンは、家庭においても、職場においても「主が共におられる」と絶えず意識して生活することが大切です。「何をするにも、神様を第一にしなさい。神様がどうすればよいか教えてくださり、それを成功させてくださいます。」(箴言3:6、リビングバイブル)主が私たちの牧者であられることを覚え、御臨在の中を歩む時、高ぶりや傲慢、ひとへの非難・中傷が湧いてくる余地はありません。そして、私たちクリスチャンの特権として「あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づ」くことが許されるのです(ヘブル4:16)。

  「主は私の羊飼い。」だからこそ「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来る」のです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」(詩篇34:8(9)、新共同訳)自分からイエス様に心を向け、イエス様を牧者と認め、信頼しましょう。「良い牧者」を見上げ、聖霊様に助け、導いて頂きながら、イエス様についていきましょう。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)主の栄光を仰ぎ、主に立ち上がって頂きましょう!


  主イエス様、あなたこそ私の牧者です。常にあなたを見上げ、あなたを土台として、みことばの中を一緒に歩む毎日でありますように。聖霊様、特別に助けて下さい。御名によってお願いします。アーメン。

 2002年11月20日更新

 

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