トップページへ神の家族キリスト教会

 

引き上げられる人は I

- 2003年1月5日 -

 水野 明廣 師

詩篇 26:1-3

  今年最初の聖日となりました。今年も主は良いお方です。ペテロI 5:6にあるように 神様からみて「ちょうど良い時に」私たちを引き上げてくださいます。

  詩篇 26:3には、「あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。」とあります。
 恵みの歩みをしながら、真理の中に生きるということは、私たちにとって大切なことです。ヨハネ 1:14に「この方は恵みとまことに満ちておられた。」と書かれているとおり、私たちの主は恵みと真理に満ちておられるので、私たちにはその両方が大切です。

  ビリー・グラハム牧師が主催され、イギリスやドイツなどのヨーロッパからの教役者が約2万人集まった集会などで、このところ「恵み」ばかりが強調され、クリスチャンの生活が世の中と同じになってきているのではないか、と論じられることがありました。 愛、慈しみは言葉を超えて大切なものです。真理のない恵みは、乱れた悲しいものになります。

  もし、親が子供の望むことばかりを行い、子供を甘やかせてしまった時の結果は、どうなるかご存知でしょう。箴言 29:21にあるとおりです。ルカ 15:13にある放蕩息子のたとえ話では、放蕩息子が父のもとに戻ったあと、また放蕩したでしょうか? 聖書には書かれていませんが、きっとその息子は父の恵みの中に生き続けたのではないでしょうか? また、パリサイ人が、イエス様を試そうとして旧約時代の律法の下、姦淫の罪を犯した女性を石打ちにするかどうかを尋ねる話の中で、最後にイエス様はその女性に対して「今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。 これは、真理の中に生きることを示しています。


  恵みを知らずに真理だけを強調する場合、いたわりも愛も無い、冷たいものとなります。イエス様は恵みとまことに満ちておられる方です。ダビデも恵みの必要を祈ると共に、真理を最も必要としていました。 ローマ書には「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ 6:1, 2)と書かれています。 恵みのために罪の中にとどまるということは絶対になく、罪を犯せば、恵みの素晴らしさから離れてゆくことになります。

 「引き上げられる」とは、何があっても、恵みの人であり、恵みの中に生きることです。恵みの中に生きるとはどのようなことでしょうか? 詩篇 26:1, 2を見ると、「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」とあります。

  家族の核である夫婦関係についてはどうでしょうか? 「他の何者にもよらないで、夫または妻とする」べきであるのに、アメリカでもフィリピンでも、また日本でも世界各国で、「よろめく」テレビドラマが放映され、見られている現状があります。 「誠実さ」は、夫や妻の両方が望むことであり、最も求められることです。 古代イスラエルにおいても、イスラエルの民はモーセがいなくなるとすぐに偶像を造っていました。もうすぐ受験期ですが、現在の日本の受験では、どれだけ質問に答えられて、どれだけ記憶できるかという、機械にもでき、少しでも機械に似るようなことを求められる現状があります。そのような中においても、誠実な生き方ができているか、誠実に歩むことができているか、よろめかないで、苦しい時も主により頼むかということが大切です。

  誰が誠実さを失おうと、クリスチャンは誠実を尽くして生きてみてください。たとえどんな近しい人がそうであっても、誠実を尽くして生きてみてください。 「主よ、私の思いと私の心を試してください。」と祈ってください。人々のために仕えたり、とりなしたりする心は社会には問われないかも知れませんが、恵みを受けるために、真理に生きてください。今まで以上に恵みを前に置きながら、たとえ人々が不正を働き、不誠実にしたとしても、真理のうちに歩むことです。

  私たちはクリスチャンです。私たちは主と共にいます。ますます恵みを求め、真理のうちに歩んでください。


 

 2003年1月8日更新

 

先頭へ

戻る