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聖日一部礼拝

- 2003年2月9日 -

 水野 明廣 師

I コリント 10;16-17, 11:27-30

 今朝、聖餐式を行うにあたって、大切な三つの真理を分かち合います。
 第一に、私たちは、イエス・キリストをかしらとして、一つのからだとされたということです。“私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。(I コリント 10:16)”聖餐にあずかるということは、キリストと私は、全く一つにされ、一つのからだになっているということを意味しているのです。教会はキリストのからだです。イエス様は教会のために命をささげられました。主は私たち一人一人をご自身のからだとして愛しておられます。

 第二に、裂かれるパンは一つだということです。私たちは、キリストにあって集められ一つのからだとなっています。“パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。(I コリント 10:17)”私たちは互いに必要としあっています。足が「私は目は要らない。」といったら、どこに向かって歩いたらよいのか、方向性を失った体になってしまいます。逆に、目が「私は足は要らない。」といったら、見える所に行くことができず、見たいものを見ることができません。一つのからだに様々の器官があるように、いろいろな人々が集められて、キリストの一つのからだとなっているのです。

 第三に、教会は本当の意味での地上における私たちの家で、そこから私たちは世に遣わされているということです。イエス様は「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ 17:18)と父に祈っておられます。私たちは、イエス様のかおりを放つために、それぞれの場所に遣わされています。主は私たちに多くの機会を与えてくださいます。私たちを通して多くの人々に御手を伸ばしておられます。私たちがキリストのからだとしてこの世でイエス・キリストを現していくのです。

 “みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。(I コリント 11:29)”
 ここでいう、みからだとはキリストのからだ、すなわち私たちクリスチャンです。教会は主のみからだです。もし、私たちが兄弟姉妹を批判したり、怒りや憎しみなどを持つなら、主のからだに対して、みからだをわきまえないことになります。一つキリストのからだとされている者同志が互いに裁いたり、批判したりすることはキリストのからだを傷つけ、主に大きな痛みを与える行為です。したがって、誰かに怒りや憎しみなどを持ったままで、聖餐にあずかることは、ふさわしくないままで、みからだをわきまえずに飲み食いすることになります。今、私たちは、聖餐式を行う前に誰かに対して傷つけるような言葉や態度がなかったか、悪い思いを持っていなかったか、自分自身を吟味しましょう。聖餐式を行うとき、まさに、私たちがキリストの一つのからだとなりますように。互いに愛と感謝の心を持ちましょう。サタンは私たちを分裂させて祈りの力、賛美の力を奪おうと働いています。しかし、教会が一つとなって共に祈るなら主は立ち上がって御力を現してくださいます。


 

 2003年2月12日更新

 

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