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恵みの中の信仰

- 2003年6月1日 -

 禹 浩鉉 師

へブル11:1, 6 / マタイ21:21-22

●へブル11:6
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

  神社へお参りに行く方を見かけることがありますが、彼らは、拝んでいるものに対して、その拝んでいるものが私達を喜んでおられるだろうか、あるいは私達を疑っているのだろうか、などと考える方はいらっしゃるでしょうか。反対に、私達の主が喜ばれる信仰とはいったいどんな信仰なのでしょうか。

  溺れている人は隣りに別の溺れている人がいたとしても助けることはできません。そんなことをしたら自分が溺れて死んでしまいますし、まず自分が助かることで精一杯です。助けてくれる人に出会う必要があります。助けてくれる人がいなければ私達は人生という海で溺れてしまいそうになることがあります。

  私(禹牧師)が、以前韓国でお世話になった針の先生が不思議な体験をされました。この方は以前、熱心な仏教徒でキリスト教を迫害しておられたそうです。しかし、交通事故で、ハンドルが折れ、中心の棒が体につきささり、病院に運ばれました。自分の霊が体から抜けて上にあがっていったそうです。そのとき、窓から声が聞こえたそうです。その声を聞いた瞬間、これはイエス様だ!と瞬間的にわかったそうです。その後、この方は息を吹き返し、熱心なキリスト教徒になったそうです。このように直接神様にあって変えられる方もいらっしゃいます。このような体験でなくても神様に出会い、信仰が与えられます。

  私達が信仰をもって歩んだ時に奇跡は起こります。ローマの百人隊長が部下のために癒しを願ったこと、モーセが紅海を渡ったこと、盲人が主が癒されると告白したとき、またべテスダの池で数十年足が癒される奇跡を願った人、ゲラサの地で悪霊につかれた人の癒し、などたくさんの奇跡が聖書には書かれています。すべて、イエス・キリストが神だと信じ、行動あるいは告白した方たちに起こった奇跡です。私達が信仰をもって踏み出す時、奇跡は起こります。

  みなさんは鍵をお持ちでしょうか。その鍵はなんのために持っておられるのでしょうか。それは持っておられる鍵で開くべき本体があるからですね。もし車を買い換えたら、あるいは引越したら、古い鍵は何の役にも立たなくなります。開くべきところがあるから鍵をもっています。だから、信仰は鍵のようなものだと思います。本体は主なる神様です。信仰という鍵を主という家に差し込むと神の国の奇跡がそこにはあるのです。神様に喜ばれる信仰を持つ時、主なる神様に私達は出会い、そしてそこに奇跡が行われます。奇跡だけを求める方は誤解しないでください。決して私たち自身が神様に出会うことなしに奇跡は起こりません。本当の奇跡とは行われた事柄ではなく、私達自身が神に出会うということが奇跡なのです。

●へブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

  信仰とは見えないものを神の御国の力によって実現させるものです。よく一般的な書店にも信じて願うならばそのとおりに願いはかなうという内容のものがありますが、それは、そうなる保証もあても全く無いのです。しかし、私達にはイエス・キリストの保証があります。私達はイエス・キリストの贖い、救いを信じています。それが信仰の土台です。実はそのこと自身が奇跡なのです。

●マタイ21:21-22「 イエスは答えて言われた。『まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。』」

  私達はすでに主が2000年前に十字架で私達の罪を背負って死んでくださったので、私達の罪は赦されました。また、罪だけでなく、私達の病や悩み苦しみもすべてそのときに主が勝利してくださったのです。ですから、私達はそのことを信じて口で告白していかなければなりません。せっかく私達はその奇跡を手に入れているのに、自ら再び病や悩みを取り戻していませんか。主に祈ったならばすでにそれは聞き入れられたと信じなければなりません。そこに疑いが入るならばすぐにサタンは病や悩みを取り戻しにやってきます。以前私(禹牧師)は二十数年間中耳炎に悩まされたことがありました。二十歳を過ぎて、牧師先生に何回か祈ってもらっても、耳垂れが出てくるとやっぱり治ってない。と自分で告白していました。2年が過ぎた頃、何かがおかしいと気がつきました。すでに主に祈ったのに、耳垂れの徴候があるとすぐに自分は「やっぱり治ってない。」と告白していたことです。すでに主に祈っていることならば、そのときに告白すべきだったのです。「すでに私は癒された。疑いをもたらすサタンよ、退け。」そのように告白してから、私の中耳炎は一度も再発していません。このように私達はすでに祈った事柄を聞き入れられたと信じることが必要です。信仰によって踏み出す時に主が働いてくださるからです。ですから常に主に対し、自分に対しても肯定的な告白をしてください。しかし最も大事なことは私達が神に出会うことです。そのために神に近づくことが必要です。その時、何が問題だったかも主は示されます。もし祈って聞き入れられないことがあるならば、それは何かもっと大事なことがあるのか、あるいはサタンの働きがあるのか、それとも神のご計画が別のところにあるのか、それも示してくださいます。へブル4:16 「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 イエス・キリストの十字架によって、私達はすでに世に勝利しています。ですから大胆に主を信じ、主に近づき、願い求めていきましょう。神に喜ばれる信仰とは、神に近づき、神を求め、そして奇跡を信じて一歩を踏み出すことのできる信仰です。そのとき、主は御わざを成してくださいます。


 

 2003年6月4日更新

 

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