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信仰の確信

- 2003年8月17日 -

 禹 浩鉉 師

ヘブル3:6、エペソ3:12

 「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。」ここでの「治める」は、強権的に支配・管理するというのではなく、私たち一人一人、また教会を、守り、支え、導いて、整えて、養って下さる、という意味です。
  主は誠実なお方です。福音書を読めば読むほど、その事がわかってきます。「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)イエス様はその公生涯のうちで、どれほど多くの人を憐れみ、誰から頼まれもしないのに、病人をいやし、人々を悪霊から解放されたことでしょう。それだけではありません。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)私たちの全ての罪を一身に負われ、十字架の上で贖いの御業を完了して下さったのです。私たちの信仰の中心は主イエス様です。いやし、不思議や奇蹟に目を奪われるのではなく、しっかりとイエス様を見つめ、イエス様と共に歩むこと、そうして私たちは信仰の深みに入り、成長していくのです。

  そして、「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」(ヨハネ10:10)とあるように、今も悪魔サタンは、私たちの信仰を打ち壊してしまおうと、日々攻撃を加えてきます。かつて、あのヨブにその試練が与えられました。サタンはヨブの全ての持ち物を奪い、さらに病を与えたのです。それでもヨブは神様を信じて、主に従おうとしました。これこそが、生きた信仰・本物の信仰のお手本です。神様に背を向けて、つぶやき、人をさばき、不平不満を口にしていれば、どんどん泥沼に浸かって出てこられなくなってしまい、サタンの思うつぼです。十字架を見上げましょう。サタンは、イエスを殺してしまえば、全てを支配できると考え、事実十字架の上でイエス様は死なれました。しかしそれはイエス様の敗北、サタンの勝利ではなく、主イエス様と私たちの勝利であったのです。イエス様は三日目に甦り、私たちを罪や呪い、死の縄目から解き放って下さいました。

 しかし、私たちが主の御手の中にあっても、全く問題がなくなる訳ではありません。私たち自身がしなくてはならない信仰の領域があります。私たちの肉では何も感じなくとも、霊の世界ではサタンの休みない攻撃が加えられています。霊の戦いは現実のものです。ですからパウロはこう言ったのです。「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」(エペソ6:16)「義人は信仰によって生きる。」(ハバクク2:4、ローマ1:17)私たちの信仰は、否定的・消極的なものに陥っていないでしょうか。甘えていると、サタンの格好の餌食になってしまうのです。また、肉の願いや、自分の能力に重きを置いていると、罪と悪と呪いに満ちたこの世に飲み込まれてしまいます。信仰の大盾を備えて、日々戦っていきましょう。私たちが決心すれば、主は御言葉、祈り、主の御名、私たちの告白を通して御業をなして下さいます。そして勝利は実生活の中にも現れるようになってきます。

●私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。(エペソ3:12)

  私たちが信じる主は、良いお方、誠実なお方です。どんな小さな、些細な事一つでも、神様の御前に心を注ぎだして祈り、人間的な考えでなく、主のお答えをうかがうようにしましょう。時には、主御自身が私たちの信仰が本物かどうかを試みられることもあります。そして、真剣な祈りと、誠実な歩みは祝福されます。
 創世記に登場するヤコブは、故郷に帰る時、行列の一番後ろを歩みました。自分がだまして祝福を奪い去った兄エサウを恐れていたからです。しかし彼はペヌエルで格闘した御使いから祝福を受けると、人が変わりました。行列の先頭に立って家長の責任を果たすと共に、兄エサウに七回礼をするほど謙遜になっていました(創世記32〜33章)。ヤコブは、主にあって、回復と感謝、確信と希望をもつようになりました。ここにまた私たちのお手本を見ることができます。自分自身の能力や考えではなく、主への信仰を養い、主に頼って主と共に勝利者となるのです。私たちの信仰は用いれば用いるほど大きく豊かになっていきます。

  日々の祈りは戦いです。祈るか祈らないかは、私たちの責任です。そして私たちは「大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」神様から来る良きもの、平安と確信を受け取りましょう。「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」(ヘブル3:14)


愛して下さるイエス様、あなたは「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」誠実なお方であられることを感謝します。肉のままでは愚かで無力な私たちです。どうか、あなたにある確信と希望をもってしっかりと歩めるように導いて下さい。私たちを建てあげ、練達した信仰の勇者、主の栄光を現す働き人にまで育てて下さい。イエス様の御名によってお願いします。アーメン。

 2003年8月20日更新

 

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