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「主が用いられる人U」

-2003年10月5日-

水野 明廣 師

詩篇42:1

  神様の大きな願いは、私たちを天国へ連れて行くことだけではありません。私たちを主の御用のために用いたい、主と似た者にしたいということも願っておられます。主が用いられる人とはどのような人でしょうか。
神の家である教会が自分にとって大きな喜びであるとき、その喜びにおいて積極的に神様の働きをしていくことができます。ダビデも神の家の喜びを人々と分かち合っていました。

●詩篇122:1「人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。」

  誉められたり感謝されたりした経験がありますか?そのとき、心からいってくれたことはとても嬉しく思いますが、嫌々言われたならば、ちっともうれしくありません。私たちは今、主への礼拝をもっています。それは、主への賛美です。心から喜んで集い、賛美を捧げましょう。主はそれをとても喜んでくださいます。

●詩篇118:26「主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」

  主の家を喜ぶと言う事は主の家を大切にしているということです。そういう方は主からの祝福がきます。主の家はキリストの体であり、また花嫁です。また、主はイエス様の栄光を私たちが取ってしまうことを喜びません。だからあえて主は弱いものを選ばれます。肉の目でみると教会は美しい体ではないかもしれません。でもイエス様は教会を心から愛しておられます。ですからキリストの体を担っているお一人お一人が神様にとって必要な方なのです。お互いにキリストの体のために祈りましょう。人々が教会につまずくことを主は喜ばれないからです。教会は主の家、主の山です。

●イザヤ2:2「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。」

  終わりの時代には教会は益々輝きだします。詩篇87:1には「主は聖なる山に基を置かれる。」とあります。ですから、主の家を大事にすることは生活の基本です。私たちは、息をする人間をたよりにするのではなく、主の家に集い、そこを人生の土台としていくことを大事にしてください。神はそれを認識している人を用いられ、祝福されます。

●詩篇23:6「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

  ダビデが用いられ、祝福されたのは主を愛し、主の家にいつまでも住むことを大事にしたからです。アサもソロモンも、主の働きをした偉大な王様でした。しかし、のちに主の家を軽んじ、祝福から離れてしまうことでも知られています。私たちはダビデのようにいつまでも主の家に住むことを大事にしましょう。
主が私たちを引き寄せてくださらなかったら、私たちは主に近づく事はできませんでした。しかし主は私たちを愛しておられ、主に近づくことができるようにされました。それは、私たちの罪のため、神のひとり子イエス・キリストが十字架に架かり、私たちの罪をあがなってくださったので、この方を信じるならば主に近づくことができるようにされました。主に近づく者は、主と似たものへと変えられていきます。変えられた方々は義の樫の木、栄光をあらわす植木です。

●詩篇92:12-15「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。」

●イザヤ61:3「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」

私たちにピッタリする土壌は主の家なのです。植木は植えられてすぐには実をならせません。また、主の家が建たなければ何もうまくはいきません。ダビデは共に主の家に集った同胞が裏切っていくことを悲しみました。
●詩篇55:13-14「そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。」

  主の家のとりなしのため、祈りましょう。イエス様が最初に弟子たちに聖餐のためのパンを裂かれたとき、そのパンは1つでした。パンは手でちぎられ、まちまちの形と大きさになりました。しかし、そのようなパンを、もし再び合わせるならば全く1つのパンに戻るのです。聖餐のパンはイエス・キリストの体です。終わりの日に主は花嫁である教会を迎えにこられます。神の家である教会で共に祈り、集い、主を待ち望みましょう。

 2003年10月12日更新

 

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