トップページへ神の家族キリスト教会

 

主が用いられる人 III

- 2003年10月12日 -

 水野 明廣 師

詩篇42:1-3

 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。

 私たちは生活の中で、なかなか問題が解決されない、苦しい状況が続くと、「神様はどこに行ってしまわれたのだろうか?」と自分の魂に言ってしまいます。また、「お前の神はどこにいるのか?」と人々から言われたり、悪魔がそのような思いを入れてくることがあります。この様なことは、神の働きをしていこうとする人にとって、何度も経験させられることです。
 神様からの熱い思いがあるのに、主はすばらしいと歌っているのに、私たちの生活が現実にその様になっていない時の嘆きや、他の人々から責められたり、そしられたりした時の痛み、苦しみのために、涙を流すこともあるでしょう。ダビデはいつも主を賛美していましたが、一方でよく泣いた人です。自分に敵対する人々に対して、自分で仕返しをせずに、主に泣いて訴えていました。

●主に仕える祭司たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。「主よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか。』と言わせておいてよいのでしょうか。」【ヨエル2:17】

 私たちは主に仕える祭司(参考:Tペテロ2:9)ですから、主の御前で泣いて祈りましょう。神様は私たちの流す涙を軽く見られません。神様は重病のヒゼキヤ王の涙の祈りを聞いて、彼の寿命を延ばしてくださいました。(参考:イザヤ37:5)私たちが、自分自身のことで涙を流して祈る時も、主はそれを無視されません。まして他の人々のために流す涙を主は格別に覚えてくださいます。イエス様はエルサレムの都を見て泣かれました。(参考:ルカ19:41)

 今日、イエス様は名古屋を見て、あまりに神を知らない人が多いので、泣いておられるのではないでしょうか。“イエスは涙を流された。”(ヨハネ11:35)イエス様は愛する人々のために涙を流されました。イエス様は私たちを責められる方でなく、私たちのために涙を流してくださる方です。私たちが、苦しんでいる人、病気の人、神を信じない人のために泣く時、本当はイエス様が泣いておられるのです。

●涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。【詩篇126:5-6】

 良い結果が来る前には、涙の準備が必要です。今朝、私たちが礼拝に来れたのは、私たちのためにとりなして下さる人があったからです。今日の私たちがあるのは、自分の力ではありません。多くの人々の涙の祈りがあったからです。教会がキリストの体として今日あるのは、多くの殉教者が涙とともに命を捧げたからです。私たちはその恵みを受けて、今朝ここに座っているのかもしれません。ですから私たちは、次の世代のためにも、涙を流して祈りましょう。涙を流して祈っても、すぐによい結果が得られないかもれません。涙をもってイエス様を伝えても、なかなか解かってもらえず、あざけられたり、無視されたりするかもしれません。自分の無力さに泣くこともあります。しかし、主は私たちの涙を覚えておられます。決して私たちの涙を無駄にはされません。人を変えるのは聖霊様です。主の御手を動かすのは私たちの涙の祈りです。イエス様は、今も私たちのためにとりなしていて下さいます。


 

 2003年10月16日更新

 

先頭へ

戻る