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願いを起こさせ、実現に至らしめる神

- 2003年10月19日 -

 村仲 俊朗 師

ピリピ 2:12-16

  本日の中心聖句、ピリピ2:12〜13は口語訳ではこうなっています。

●「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」

  救いは、自分で必死に頑張って獲得するものではありません。私たちがイエス様を受け入れた時、神様からの一方的な恵みで与えられるものです。洗礼式は私たちのゴールではなく、信仰のスタートポイントなのです。主なる神様が喜んで下さることをもっとしたい、聖霊様ともっと深く交わりたい、そして、神の国を味わいたい、という「願い」を、神様が私たち一人一人の中に起こさせて下さり、その一人一人を導いて喜びに満ち溢れた信仰生活を送らせて下さるのです。

  同じピリピ2:12をリビングバイブルで読んでみましょう。

●「心から愛する皆さん。私がそちらにいた時、あなたがたはいつも私の教えに細心の注意をはらって従ってくれました。離れている今はなおさら、注意深く善行に励んで下さい。救われているのなら、当然そうすべきなのです。深い尊敬の思いをこめて神様に従い、神様をお喜ばせできないことからは手を引きなさい。」

  では、「神様をお喜ばせ」すること、神様が願っておられることとはいったい何なのでしょう。「信仰の三本柱」といわれる1テサロニケ5:16〜18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」そして、1テモテ2:4「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」です。

  聖書の登場人物を四人挙げてその信仰を見てみましょう。まずは、マルコの福音書10章の盲人バルテマイです。「ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。」(10:14〜48)口語訳では、「多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、」とあります。
  バルテマイの思いの中では、ずっと目が開くことを願っていたのでしょう。では「ますます激しく叫びつづけた」バルテマイはどうなったでしょう。『「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。」』(10:51〜52)
  イエス様は今も「わたしに何をしてほしいのか」と私たちに問いかけておられます。祈りがきかれないとすぐに「駄目もと」信仰、悲観的になってしまう傾向が私たちにはあります。悪いほうにばかり考えていると、「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」(ヨブ3:25)と嘆いたヨブのようになってしまいます。私たちは信仰を奮い立たせて、バルテマイのように「ますます激しく叫びつづけ」ようではありませんか。

  次に、同じマルコの福音書の5章に登場する長血の女です。「彼女はかねがねイエスのうわさを聞いていたので、群衆の中を彼に近づいて、そのみ衣にさわった。あのかたのみ衣にさわりさえすればじょうぶになれるといつも言っていたのである。」(5:27〜28、詳訳聖書)きっと願いはきかれる、私は救われる!という確信、そしていつも祈り、告白し続けた信仰が彼女を大胆な行動に駆り立てたのです。

  また、旧約聖書の勇士カレブもまた、主を待ち望み、祈り願い続けた人でした。約束の地ヘブロンを手にしたのは、主が仰せられてから、実に45年も後の事だったのです(民数記14:24、ヨシュア記14:6〜14)。

  彼らと対照的な人物として、2列王記13章のヨアシュ王を見ます。

●「エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい。」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」(2列王記13:16〜19)

  どん詰まりの状況でも、すぐにあきらめたり、安直に事を終わらせるのではなく、私たちは信仰の矢を「五回、六回、打つ」ようにしましょう。
  使徒の働き12章には、捕らえられ、幽閉された使徒ペテロが、奇蹟的に御使いによって牢から救出される場面があります。「彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。」(12:18)なぜ「門がひとりでに開いた」のでしょうか。「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(12:5)
  この熱いとりなしの祈りを、神様がお聞きになって扉を開けて下さったのです。ひるがえって、私たちの信仰生活では、門が開かないことがしばしばです。なぜでしょう。まず、願い事を吟味してみなしょう。主の思いに反した、わがままな肉の願いは神様がよしとされません。性急になってはいませんか。
●「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(伝道者の書3:1)

  その時を待ち望んで祈り続けましょう。また、物事には順番があります。あわててこじ開けようとしても、門は動きません。最初からあきらめていては開かないのは当然ですから、希望をもちましょう。そして、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1〜2)自分のうちにある罪、咎を素直に告白しましょう。主は赦して下さり、道を開いてくださいます。

●「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。〜主の御告げ。〜それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

  主は私たち一人一人に素晴らしい計画をたてておられます。心の願いを今一度吟味して、聖霊様に豊かに働いて頂きましょう。みこころに沿った願いは、主の御手によって必ず実現するでしょう。


 

 2003年10月21日更新

 

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