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主が用いられる人 VII

- 2003年11月23日 -

 水野 明廣 師

詩篇 47:1-6

  幼稚園で、入園したばかりの子供が、泣いて泣いて手がつけられないのをご覧になったことがありますか。本当なら飛び回って遊んでもいいのに、楽しいお遊戯やお外遊びもあるのに・・・。周りは知らない人ばかり・・・先生は怖そうで・・・幼稚園の先生は、さあ、どうしたら良いものか・・・他人事ではありません。私たちクリスチャンの信仰生活でも同じような光景を目にします。泣き叫んでいる私たちをじっとご覧になっている神様ですね。そんな時には恵みの主も、私たちに難行苦行を強いて、罰を与える怖い存在に思えてしまいます。

  詩篇47篇6節では「ほめ歌を歌え」が4回も繰り返されています。ゼパニヤ書でも「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。」(3:17)とあります。聖書の中で語句が繰り返されている時は、特に重要な事を意味します。状況がどうであれ、主にほめ歌を歌うこと、そして主を喜ぶことは、それまで堰き止められていた主の恵みと奇蹟がほとばしり出るきっかけになるのです。
  聖霊様のリニューアルのお働きの中では、私たちは何もかも、誰も彼も忘れて、主を喜ぶことができますが、同時に、神様が私たちを喜んでいて下さることを実感します。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ 14:17)それは天国の前味です。「また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」(黙示録 21:3-4)そうです。神の国は喜びの国であり、神様は私たちのことを喜んで下さっているのです。「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)。私たちの置かれている状況、私たちに抱えている問題の数々・・・それでも主は私たちのことをお喜びであり、私たちは主の御前に出て主を喜ぶのです。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)
  旧約即ち律法の時代、主を喜ぶことは律法の一部でした「七日間、仮庵の祭りをしなければならない。この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、在留異国人、みなしご、やもめも共に喜びなさい。」(申命記 16:13-14)
  今は新約、恵みの時代ですが、やはり主を喜ぶことが勧められています。使徒パウロは獄中に監禁されている時、また迫害の真っ只中にさえこう書きました。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)「いつも喜んでいなさい。」(1 テサロニケ 5:16)。使徒ペテロもそうでした「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」(1 ペテロ 2:20)「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」(1 ペテロ4:13)。

  私たちクリスチャンと世の人々との決定的な違いは、「主がともにおられる」ということです。アブラハムはアビメレクに「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。」と言われましたし(創世記 21:22)、モーセはエジプトを出て約束の地への旅を始める時に神様に迫りました。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」(出エジプト 33:15)。主の御臨在、それは喜びの讃美の中に現れるのです。サタンとの霊的な戦いにおいても、かつてヨシャパテ王がエン・ゲディの戦いでしたように、私たちは讃美をもって臨み、圧倒的な勝利者となりましょう。「それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した・・・それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」(2 歴代誌 20:18-22)。

  主が用いられる人、それはどんな状況の中でも、主を喜び、主に喜ばれる人です。私たちの知性や理性では困難に思えても、それでもなお、喜びの讃美を捧げるのです。「神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。」(詩篇 47:5)あふれる喜びの中で、主に立ち上がって頂きましょう。


 愛して下さる主よ、どんな状況や環境の中でも、それを乗り越えて、あなたを喜び、あなたに喜ばれる者とならせて下さい。イエス様の御名によってお願いします。アーメン。

 2003年11月26日更新

 

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