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健全なクリスチャン生活のために(I):恵まれたクリスチャン生活の指針

- 2003年11月30日 -

 水野 明廣 師

詩篇50:14

  先日、私は、とある寿司屋さんで昼食をとる機会がありました。私が驚いたのは、何を注文しても店員さんが「ありがとうございます。」と返事をされることでした。驚いたと同時に、「ありがとう」と“感謝”について深く考えさせられました。業務用にただ「ありがとうございます。」と頭を下げるのと、本当に真心から「ありがとう」と言うことの違いです。
  私たちクリスチャンは、「神の子ども」(1ヨハネ3:1)また「御国を受け継ぐ者」(エペソ1:11)なのですが、受けるばかりではなく、良いものを与え続け、また感謝し続けるのが、恵まれて豊かなクリスチャン生活なのです。詩篇50篇で「世界とそれに満ちるものはわたしのものだから」(12節)とおっしゃる神様が同時に「感謝のいけにえを神にささげよ」(14節)とおっしゃいます。
  旧約時代、捧げ物は、神の民として召されたことの証しでした。やぎや子羊を買う余裕がなくて、鳥や小麦粉を捧げても、心からのいけにえであれば、神はそれを良しとされました。私たち現代のクリスチャンも、神様に常に感謝のいけにえを捧げることを怠ってはいけませんが、その感謝には本当に心がこもっていなければ、何にもなりません。口先の感謝を主はことのほか嫌われます。「この国民は、口先ではわたしの民だと言いながら、実際にはわたしの言いつけを守らない。連中の礼拝ときたら、そらで覚えた文句の反復だ。もう黙ってはいられない。」(イザヤ29:13、リビングバイブル)無論感謝を忘れてしまっているのは論外です「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ1:21)
  そして、「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。』」(ルカ18:11)このようなひとの徳を高めない感謝も神様はお喜びになりません。
 
  イエス様が四千人に食べ物をお与えになった話が、マタイ(15:32〜39)とマルコ(8:1〜9)に登場します。これに先立つ五千人の給食の話は四福音書の全てに書き記されています(マタイ14:13〜21,マルコ6:30〜44、ルカ9:10〜17、ヨハネ6:1〜15)。いずれも、手元にはわずかなパンしかなかったのに、有り余る程に人々を満たしたのでした。イエス様は、五千人の時はパンを祝福し、四千人の際にはパンを感謝して配られました。祝福は神のなさること、感謝は我々人間がすることで、これはまことのひと(ヨハネ3:15)であり、まことの神の子(ルカ22:70)であられたイエス様を象徴しています。いずれにしても、ごくごく僅かのパンで何千人もの人々を養われた訳ですが、これは、どんな小さな恵みであっても、感謝してこれを受ける時、神の祝福が臨み、奇蹟が私たちの人生に起きるということ、初めが少ないほど多く満たされることの象徴です。思い返してみて、祝福や奇蹟を思い出したら、今でも遅くありません。主に感謝しましょう。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2)」
  四千人に食べ物をお与えになった後、イエス様は「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」とおっしゃいました。パン種はイースト菌のことですが、ここでは純粋な心を乱し、汚す物、この世の名誉や財産、そして愛も真実もない形だけの宗教、傲慢な心を表します。これらを放っておくと、パンの生地が膨れていくように膨張して、とんでもないことになります。油断することなく心を見張りながら、へりくだって感謝に満ち溢れたクリスチャン生活を送りましょう。
  ダビデは、ことに感謝の大切さをわきまえていました。苦しく悲惨なところを通る際も、どんな境遇、辛い出来事の最中にも、感謝を忘れませんでした。

●「しかし私は悩み、痛んでいます。神よ。御救いが私を高く上げてくださるように。私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。」(詩篇69:29〜30)
●「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。」(詩篇139:14)

  ダビデの感謝と讃美は主の心にかないました。ですから彼は神様の守りと祝福の中を歩むことができたのです。

●「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5:20)
●「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5:18)

  感謝と讃美は一過性のものであっては何の意味もありません。どんな状況でもまず感謝を捧げましょう。かつてのイスラエルの民のようにつぶやいてはいけません。「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」(1コリント10:10)またエペソ書では5:21から夫婦・親子・主人と雇われ人についての勧めが続きます。人間関係にあっても、お互いが感謝に溢れる歩みをなしていけば、そこに神の祝福と奇蹟が現れます。

●「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。」(2コリント4:15)

  私たちをとりまく何事も全て神様の御手の中にあります。感謝のいけにえをいつも主に捧げていれば、主の御手のわざが伸ばされ、主の恵みが増し加わり、主の栄光が現れるのです。


  「私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。」(詩篇138:1)主よ、私もダビデのように祈ります。どんな状況にあっても、心を込めて感謝し続けるクリスチャン生活となりますように、聖霊様、特別に助けて下さい。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 2003年12月6日更新

 

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