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罪を悔い改める人

- 2003年12月7日 -

 水野 明廣 師

詩篇 51:1-17

  ダビデはある日の夕方、城の上を歩いていました。下を見渡したとき、ふと目についたものがありました。水浴している女性の姿です。あまりの美しさのためにその女性に見入り、そして、その女性を城に召し入れました。しかしそのことでダビデは罪を犯すことになります。なんと夫のあるその女性と関係をもってしまいました。その上、その女性は身ごもりました。ダビデはそれをごまかすために、女性の夫を戦場の一番激しい前線へ遣わしました。その夫は戦死しました。ダビデは心の中でうまく隠せたと思ったのでしょうか。
  しかし、ダビデの前にナタンという預言者がやってきました。ナタンはダビデに話をしました。

●サムエル記II 12:1-7
「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」

  その話にダビデは激しく怒りました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」ナタンは言いました。「あなたがその男です。」
  この世に非のうちどころがない人はいません。旧約の時代から新約の時代まで、義とされるお方はイエス・キリストただお一人だけです。神は、私たちが自分の罪を悔い、イエス・キリストの十字架の贖いによる救いを受け取り、私たちをクリスチャン、神の子とされました。それによって、クリスチャンは栄え、成功し、繁栄し、勝利することのできるものと変えられました。神はクリスチャンを祝福されるために召されています。ですから、クリスチャンなのに成功できないでいるとしたら、その理由の一つに、私たちの内に隠されている罪があるのかもしれません。

●詩篇19:12-14「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」

  私たちは他人の罪には非常に敏感で、よく見えがちですが、本当は自分自身の罪に注意深くなる必要があります。

●マタイ7:3「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」

  罪を悔い改めることは人間には困難なようです。まだ物心つく前の小さい子供でさえ、ごめんなさいということは難しいようですし、アダムやエバも、主の前に罪を犯したとき、責任を転嫁しました。もし罪を犯したならば、すぐに悔い改めてください。すぐに告白し悔い改めることをしないならば、やがて悔い改めることさえできなくなり、取り返しのつかない大きな悲しみを引き起こします。旧約の時代のサウロもそうでした。罪の恐ろしさを知らず、それをそのまま放置しておくと、なんでそんなことになってしまったのだろうと、取り返しのつかないことになることを聖書に見ることができます。成功することができる人は自分の過ちに気がついたならば、すぐに悔い改めて同じ過ちを繰り返しません。

●箴言28:13「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」

  罪は癌のようなもので、できるだけ早く取り除かないと、その人を滅ぼしてしまう可能性があるからです。

  黙示録に7つの教会への言葉があります。サルデスの教会、エペソの教会に対して、神は悔い改めの必要を書いていますが、ラオデキヤの教会には、特に熱心に悔い改めなさいと書いています。

●黙示録3:16「 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」

  この日本はまるでラオデキヤの教会のようではありませんか。どうか神の前に熱心に悔い改めて神に近づくものとなってください。熱心さのないことはことさら悔い改めを必要とします。神はみなさんが祝福された人生を歩むことを願っておられます。確かな悔い改めはその人の人生にとって、確かな土台のようなものです。深い悔い改めは、その人に深いしっかりとした何にもゆるがされることのない土台を築きます。しかし悔い改めが浅いものならば、その土台は浅く、ちょっとした嵐が吹くと倒れてしまうのです。どうかしっかりとした土台を築いてください。
  聖餐式は、私たちが祝福され、成功し、勝利するようにという、神からの恵みです。しかし、私たちの内にもし罪があるならば、それを受け取ることはできません。怒ることがあっても、怒ったままで夜を過ごさないでください。人を赦さず、怒りをもち続けるならば、この世の君であるサタンがそこを足場にして働きます。やがて、その怒り自身が自分の身をも滅ぼしていくのです。ですから、一方では聖餐式は悔い改めを迫るものでもあります。

●I コリント11:27-29「 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。」

  ダビデは神の前に悔い改めて二度と同じ罪を犯すことはありませんでした。罪を犯したならば、それを隠さず、すぐに神の御前に心から悔い改めることが必要です。

●詩篇51:17「 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

  どうぞ、今日私たちのうちにある罪を神の御前に悔い改め、聖餐の恵みにあずかりましょう。そして、クリスチャンとして祝福された人生を歩みましょう。


 

 2003年12月11日更新

 

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