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主の恵みに圧倒される

- 2004年1月4日 -

 水野 明廣 師

詩篇 63:1-3

  ダビデは国を建て上げ、礼拝者として、まれに見る素晴らしい王でした。彼はいつも主の前にへりくだって主によりすがり、王である間ずっと心から主へ礼拝を捧げる事を大事にしました。これは難しいことです。今でも社会人として、苦しく問題の中にあるときには主に求めていたのに、それが過ぎ去ると信仰から遠ざかるケースは少なくないからです。神様への愛も一過性であることがあります。

  先ほどのように問題があると、主に頼り、すがっていくのですが、それが解決されて成功し、祝福されていくと神様から離れていってしまうことがあるのです。よく言われることなのですが、信仰の子供はいても信仰の孫はいない、といわれます。それは、本人が神に出会い、神の前にどう生きていくかが大切で、決して親や祖父母が信仰者だからとって、その子供が信仰の子供となれるものではないということです。ダビデは素晴らしい英雄であり、成功者でしたが主への熱意は変わることがありませんでした。ですから、どんな状況のなかでも神を愛し求め続けてください。
 しかしそのようなダビデも罪を犯しました。罪は主の前に心から悔い改めるときに赦されますが、その刈り取りはすることになります。ダビデはウリヤの妻との問題からその後、子供たちとの間に問題が起こることになりました。子供の一人がダビデを王座から追い出し、殺そうとしました。

 詩篇63:1-3はそのような状況の中でダビデが主に叫んだものです。このときにダビデがエルサレムから逃れてきた場所は、実際に灼熱の砂漠で草木が生えない場所でした。年間に数ミリしか雨の降らない地で、荒涼としており、砂漠の中の砂漠、水がなければ人間が生きることのできない、追っ手さえも来るのが難しい場所でした。自然環境も、また現実的な環境も同じように砂漠の中にいる状況でした。まさに体力も能力も心さえも衰え果てるような状況でダビデは主に叫びました。

 今日、2004年の最初のメッセージにここを選んだ理由は、主が用いられる人は、それぞれ試練に会ったとしても、私たちが主に叫び求めるときに、問題を超えた神ご自身との交わりを持つことができるということです。私たちが今この世に生きているのは、私たちが生きたいと思うからではなく、神のご計画があり、神の御用が私たちそれぞれにあるからなのです。そうでなければ、すでに天に引き上げられています。神が私たちを用いたいと願っておられるので私たちはこの世で生きています。

 主が求めておられるのは砕かれた魂です。ダビデも自分の子によって、王座を追われ、殺されかけ、荒れ果てた地へ追いやられるという試練にあいました。王であるダビデもまた主の前に魂の砕かれたものでした。みなさん自身も、なぜこのようなことが、あるいはこのような状況に私がいなければならないのか、といった試練を通ることがあります。しかし、そのような状況で主は私たちにすべてを主の御手に委ねるよう、砕かれた魂を求めておられます。ダビデは叫びました。

●詩篇63:1「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」

 ダビデはこのような状況でまず理解者や助け手を求めたわけではなく、ただ主ご自身を求めました。神様、私が欲しいのはあなたの現実なのです、と。信仰は宗教ではなく、生きた神様との交わりです。世界的に有名な牧師であるベニー・ヒン牧師に以前質問したことがありました。「あなたはなぜ、そんなに大きく用いられているのですか?」目に見える部分も、また牧師としての働きも非常に大きく祝福されている方ですが、ヒン牧師がいわれたのは、「私は主の前で小さな子供に過ぎません。主に頼らなければ生きていくことができないのです。私には学歴や人の目を引くようなものは何一つありませんが、水野牧師、僕のほうが神に渇いているからだと思うよ。」ということでした。主に叫び求める者を主は何よりも重んじられます。もっともっと神様に渇き、求めていきましょう。

 詩篇63: 3でダビデは主に告白しています。「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」本当の主の御業は主の愛が迫っているので、そこから始まるともいえるでしょう。主が喜ばれる道をみなさんが日々歩むことができるように願っています。


 

 2004年1月9日更新

 

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