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「十字架にいのちがある」 

- 2004年4月7日 -

大矢教師

Iコリント10:16〜17

 今週はキリストの受難週です。それは、キリストの受けられた苦しみを覚えることです。イエス様はなぜ十字架の上で死なれたのでしょうか


 聖餐式は、イエス・キリストが渡される夜に弟子たちに命じた儀式です。決して食欲を満たす意味で行われるものではありません。私を覚えてこれを行いなさい、とイエス様は言われました。イエス・キリストを覚えることは、イエス・キリストが私たちの罪のために支払ってくださった代償を覚えることでもあります。「パッション」という映画が海外ではすでに見られています。日本でも5月から封切りです。これはイエス・キリストが十字架で亡くなるまでの72時間をクローズアップして作られた映画です。

 キリストの受難はあまりにも惨い、想像を絶するものでした。手のひらを釘で打たれ、全身の体重がそこにかかり、いばらの冠をかぶせられ、いばらのついた鞭でたたかれ、こぶしで殴られ、服をはがれ、つばきをかけられました。本当ならば、その流された血も、数々の受けた拷問も、私たちがあずかるものだったのです。イエス・キリストは、ただ私たちが神の御前に赦される存在になるために私たちに代わってその罪の代償を背負ってくださいました。この惨い苦しみにもただ、ただ、私たちのことを思って耐えられたのです。それは、この世の誰をも与えることのできない愛を私たちに与えて下さったのです。ご自分がもし苦しみに会うのならご自身を通してより多くの人々に命を与えることができることを知っておられたのです。それゆえ、私たちの祝福はこのイエス・キリストの血にあずかることなのです。

●1コリント10:16「 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」

 神の前に罪あるものとして定められていた人間は、イエス・キリストの十字架の死によって、神の前に受け入れられるものとなりました。神と人との間に和解をもたらしてくださいました。また、イエス・キリストは、多くの人がご自分を信じで救いを受け入れ、一つとなることを望んでおられます。聖餐式で一つのパンがさかれて人々にパンが行き渡るように、イエス・キリストの肉が滅びることによって、救いが一人一人に行き渡ります。裂かれたパンはバラバラになってしまいますが、それをすべて集めると、元の一つのパンに戻ります。そのように、私たちはイエス・キリストを信じたならば、再びイエス・キリストのもとで一致できることをイエス様は望んでおられるのです。

●Iコリント10:17 「パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」

 イエス様は神と人との間に和解をもたらしてくださっただけでなく、私たち人と人の間にある隔ての壁をも打ち砕いてくださったのです。それは、私たちがイエス・キリストの救いを受け入れたら、個人個人でバラバラになるためではなく、集められて一つになるためです。私たちの間にどんな違いがあってもその関係に平和と和解があるようにされました。

●Tヨハネ1:7「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

 ですから、十字架の上で私たちの罪のために代価を払ってくださったイエス・キリストを思って、神の前に自分の肉を捨て去りましょう。十字架には私たちのいのちがあります。イエス・キリストは十字架の上で、私たちの罪のために、代償の生け贄として血を流されたことを覚えましょう。神に捧げる礼拝の前に、聖餐のパンを食べる前に、祈る前に、賛美する前に、私たちの間から争い、妬み、怒り、イライラする心を捨て去りましょう。そうれば、私たちの祈りや賛美を神が喜んで受け取ってくださり、私たちは益々神からの祝福を受け取ることができるようになります。 
 

 2004年4月7日更新

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