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「神の祝福を逃さないため」

- 2004年8月22日 -

水野 明廣 牧師

詩篇109:16-17

 詩篇109:16 「それは、彼が愛のわざを行なうことに心を留めず、むしろ、悩む者、貧しい人、心ひしがれた者を追いつめ、殺そうとしたからです。彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。」愛のわざを行なうことに心を留めない人、のろうことを愛した人、祝福することを喜ばなかった人を肯定的に考えますと愛のわざを行なうことに心を留める人、のろうことを愛さない人、祝福することを喜ぶ人は祝福を逃さないのです。

多くの人がクリスチャンでも牧師でも過去の傷に縛られているのが現実です。

Uコリント8章でマケドニア教会がものすごく大変な時、極度の試練、貧しさにもかかわらず惜しみなく与え、流しました。これは豊かさ・祝福に通じます。いつも受けているものを与えていきましょう。どんな状況化でも捧げる事をしましょう。

 さて、のろう事を愛するとはどういうことでしょう。クリスチャンであっても謙遜のつもりで「私は不幸です。」とか「私は駄目な人です。」と言えばそれは自分にのろいの種を植え付けていることになるのです。誰でものろいの言葉をかけてしまっている事に意外と気づいていません。イエス様の言葉をみると麗しい、赦されている、高価で尊い。箴言でも人は語る言葉によって自分の人生が決まるとも言っています。他の人が私たちをのろっても不幸には決してなりません。私たちはキリストのもとに祝福されていますから。しかし、自分で自分をのろってしまうことがあります。のろわれても主の惠みにより、主によって幸いと言うことが大切です。クリスチャンは他の人をのろってはいけません。そのようなことは全く効果はありませんから。

●Tペテロ3:9 「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

 「私は弱い、不幸だ」と終わらず、「イエス様の惠みによって幸せです。」と言える様に、「祝福されています。」と言えるように。ヤベツは悲しみの子と言われましたが祝福の祈りをしました。(これがヤベツの祈り)謙遜のつもりでもマイナスのことを言うと、不幸とか、弱いとか言い続けると必ずそうなるのです。自分をのろってしまうことになります。

 祝福を喜び、感謝であらわすこと、表現することが大切です。自分の欲しいことを相手にその祝福をしてみて下さい。アーメン

 主よ、あなたの御言葉を聞けば、内なる聖霊様の声を聞けば、祝福の言葉を聞けます。慰めに満ち、励ましに満ち、もっともっと主への信仰と主の命へとあふれて生きる事が出来ますように。聖霊様、あなたは私たちにすでに良いものを与えて下さっています。どうぞ与え続ける生涯として下さい。同時に自ら祝福の言葉が溢れます様に、イエス様、いつも祝福ありますように、また、人が主に喜びを与えるような得を立て、励ますような言葉を私たちが使うことが出来ますように聖霊様、助けて下さい。イエス様の御名によって祝福します。アーメン

 2004年8月30日更新

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