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「どこを向いていますか」

- 2004年9月12日 -

神戸 京子 伝道師

Uコリント3:6-8

●神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。(Uコリント3:6-8)

ここに書かれていることは、古い契約の栄光は消え去るものであり、新しい契約の栄光は永続するもので、前の栄光に優るものだということです。モーセが主の前で仕えた時、彼の顔は栄光で輝きましたが、その栄光は消え去ってしまうものでした。そのため、モーセは消えうせるものの最後をイスラエルの人々から隠すために、顔におおいを掛けたのです。(参考 Uコリント3:13)そして同じおおいが彼らの思いにも掛けられたままになっていました。このおおいはキリストによって取り除かれるものでした。(参考 Uコリント3:14-15)彼らの思いにおおいが掛けられていたので、聖書が朗読されてはいても彼らは、御言葉を悟ることができませんでした。(参考 Uコリント3:16)
しかし新しい契約の栄光は消え去ることがないので、おおいを掛けて隠す必要はありません。新しい契約の下にある私たちは何の障害もなく大胆に主の前に出て主と直接交わることができるのです。キリストによってもうおおいは除かれています。しかし私たちの側が心におおいを掛けていること、すなわち私たちの思いが新しくなっていない、意識が変わっていないことがあるのです。私たちのおおいとはなんでしょうか?

@主が中心でなく自分が中心となってしまうこと。自分の考えに固執し、自分の方法、自分の時間で生きてしまうことです。
A主から目を離して環境や状況に目を奪われたり、自分自身だけを見つめてしまうことです。

”信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。”

私たちは環境や自分自身などではなく、主に向くことができるよう聖霊様の助けを求めなければなりません。主の前に静まって、自分の願いや思いがどこから来たのか主に伺い、主の御心を求めましょう。私たちが神中心から離れてしまうことがあっても、主は回復の機会を与えてくださいます。
ダビデは窮地に立たされた時、主に伺い、主によって奮い立ちました。私たちが主に求めるなら主はお言葉を下さり、奮い立つ力をくださいます。私たちが主に向き、おおいが取り除かれていく時に、聖霊様の働きによって、栄光から栄光へと私たちは造り変えられていきます。聖霊の注ぎは主に従う心を持つ者に与えられ、主に従う心は聞く耳を持つ者に与えられます。そして聖霊の注ぎのあるところに自由があり、聖霊様が私たちを主と同じ姿に変えてくださいます。私たちが神の子らしくなるのは、自分の努力ではなく、聖霊様の働きによって造り変えられるのです。自分で自分を変えることはできません。私たちのおおいが取り除かれて、主に向いているなら、主に似た者となっていくのです。私たちを通して主の栄光が現されていくのです。

 2004年9月14日更新

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