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「私の主、私の神」

- 2004年10月3日 -

禹 浩鉉 牧師

詩篇23

  私(禹牧師)は詩篇23編が大好きです。いつもこの箇所を読むと慰めと力を受けます。時に、水曜礼拝のときなど、礼拝の賛美の中で主の臨在があり、メッセージの必要を感じないことがあります。直接神様が触れてくださるからです。もちろん御言葉は必要ですが、御言葉が私を通して語られるより、直接神様が触れてくださり、個人的に語ってくださることのほうが、素晴らしいことだからです。

詩篇23編から、主がどんなに良いお方で、私たちを大事にし、愛してくださっているかを知ることができます。詩篇23編を語ったダビデは、王様として召される前は羊飼いでした。だから、良い羊飼いが、どのようなものかを経験から良く知っていました。ここで語られているのは羊飼いなる主と、羊に例えられた人間のことです。

●詩篇23:1-2「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」

羊は、どこに行けば素晴らしい牧場と水があり、安らげるのかを知りません。だから羊には、導く羊飼いが必要です。羊飼いは羊を良い牧場へ導くために、どこを通って行けば良いか知っています。もし導く羊飼いがいなければ、羊は飢え乾き、あるいは獣に襲われて死んでしまうでしょう。同様に、私たちも羊の様なものです。私たちの人間の目からは、未来において、素晴らしい牧場と、いこいの水のほとりがどこにあるか知りません。これからどうなるのかさえわかりません。だから、そのわからない私たちを導いて下さる良い羊飼いなる主イエス・キリストが必要なのです。私たちは時として乏しいと感じることがあります。いや、時々、ではなくいつも乏しい!と思われている方もいらっしゃるかもしれませんね。(笑)人間は五感を通して感じます。そのため、置かれた環境によって乏しいと感じることもあるでしょうし、自分がいこいの水のほとりにいるとは思えない!ということもあるでしょう。しかし、イエス・キリストに従っていく時に私たちは、良い牧草に恵まれ、いこいの水のほとりで豊かな命の水を飲むことができるのです。

また、羊飼いは1頭1頭の羊の状況をよくご存知です。ある羊は病気であったり、痛んでいたりするでしょうし、別の羊は柔らかい牧草しか食べれないものもいるでしょう。水が必要なものもあれば、硬い牧草でも大丈夫なものもいるでしょう。それぞれの羊がいるのです。しかし羊飼いはそれらの状況をよく知っています。だから、私たちも神様に祈る時には、心の内から素直に正直に率直に主に語りましょう。 羊飼いなる主は、羊である私たちのことを良くご存知です。信仰はやせ我慢することではなく、素直に羊飼いのふところに飛び込んで行くことです。
この世は罪と呪いで満ちた、世の君が支配している世なのです。どんなにまじめに誠実に生きていても世の中から悪い影響を受けてしまうことがあります。だからイエス様に助けていただく必要があるのです。

そして、良い羊飼いは、もっと良い牧草地へ羊を連れて行くために、時として危険なところも通らなければならないことがあるでしょう。羊の成長と繁栄のためにはそのようなところを通る必要もあるでしょう。私たちも時として試練や問題の中に置かれる事があります。それは私たちが、さらに豊かに成長していくチャンスでもあります。それは、試練を通して益々強くなることができるからです。
また、羊の中には自分勝手に放蕩し、どこかに行ってしまうようなものもいるかもしれません。そのような羊には、時に訓練や戒めが必要なこともあるでしょう。羊飼いはいつも羊が豊かに成長してくことを望んでいます。

イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架に架けられました。しかし、3日目に死人の内より、よみがえられました。その後、イエス様はマリヤや弟子たちの前に現れました。決して見るまではよみがえりを信じないと言ったトマスという人物にも、主は現れてくださいました。

●ヨハネ20:24-29「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に『私たちは主を見た。』と言った。しかし、トマスは彼らに『私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。』と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように。』と言われた。それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』 トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」

私たちは霊的に盲目ですが、神様の現実を時として知ることができます。主は私たちのすべての状況をご存知です。神様が私たちを支え、私たちを養ってくださいます。ですから、見える人間により頼むのではなく、見えない全能の神様にあって、歩む人生を送って行きましょう。

2004年10月8日更新

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