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「素晴らしい収穫と回復のために」

- 2004年10月31日 -

水野 明廣 牧師

詩篇126:1-6

  「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩篇126:5)
一人の命が神に救われるため、涙を流しても種をまこう。決して後悔の涙にならないように。

 イスラエルの民がバビロニアに捕虜として連れて行かれ、70年間故郷を離れ捕らわれの身となりました。しかし主の御業により再びエルサレムの地へ戻ってくることができました。エルサレムへ再び帰ってくることのできた人々の気持ち、また逆に、連れて行かれた家族の帰郷を待ち望み、迎えることのできた人々の気持ちはいかなるものでしょうか。
「主がシオンの捕らわれ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなされた。』」(詩篇126:1−2)
長い間自分のもとから引き離された、愛する家族が再び戻ってきたとき、どれほどうれしいことでしょう。自分の失った大切なものが取り戻されたのです。
 「シオンの捕らわれ人」とは神への信仰を失ってしまった人、神から離れてしまった人のことをも意味します。残念ながらクリスチャンであってもそのような状態へ陥ってしまうことがあります。しかし主は失われた魂を取り戻したいと切に願っておられます。主の民を決して滅亡させたくないのです。
 4節に「ネゲブの流れ」とありますが、ネゲブとはめったに雨の降らない砂漠の地です。「ネゲブの流れ」はそのような地に雨が降ったときにのみできる川の流れのことです。人工的には到底成し得ない、神の御手によって初めて成される恵みです。私たちの力をはるかに超えた大いなる可能性を秘めた神の働きのみにより魂の救いが成されるのです。私たちはそのような神の御業を祈り求め、時には涙の種まきを必要とします。
 長い間捕虜とされたイスラエルの民は、限られた手持ちわずかの食するための小麦をも、新しい次の麦を育てるために、冒頭の御言葉のように、涙をのんでそれらを種として蒔きました(詩編126: 5)。マルコの福音書12:41−44では金持ちが大金を献金箱へ投げ入れていた後に、貧しいやもめが2レプタを捧げる様子をイエス様がじっと見ておられる様子が描かれています。その女性が主のために自分のできる精一杯のささげ物をしているところをイエス様はしっかりと見ておられたのです。「自分の全てをささげます。もう頼るのはイエス様のみです!」そんな切なる叫びの祈り、涙しかでないような祈り、大いなる神にすがるような祈り、主は聞いておられるのです。私たちに問われるところです:イエス様に頼るのか、それとも・・・イエス様にも頼るのか。

 神の宮を建ててから種を蒔かなければ主の栄光は現れません。穴のあいた袋に種を入れても実を結びません(ハガイ書1:6)。種まきとは神の御言葉です。神との深く親しい交わりを持つと、神が愛する者の誰一人として滅んでほしくないということを教えられます。私(水野牧師)がまだサラリーマンだった頃、朝の通勤時のバスの中で突然こらえきれないほどに涙が流れてきました。私の家族はおろか、おそらくこのバスの中にいる人たちのほとんどが神の救いを知らずして滅びていってしまうのだろうか・・・。不意にそのような深い悲しみに襲われました。あまりにも涙が出てくるのでバスを降りてしまいました。
 しかし、種まきの涙と対極にあるのが後悔の涙です。私たちは後悔の涙を流さないように、主の御言葉の種を蒔く涙を流しましょう。
 私たちの主は人間が罪によって滅んでいくのをただ見ているお方では決してありません。イエス・キリストはエルサレムの町をみて涙を流されました(ルカ19:41)。神の救いがすぐそこまで来ているのに人々はそれを知ろうとせず、滅びの道を進んでいるからです。イエス様は人間の苦しみ・悲しみを知っている方(イザヤ書53・63・64)、情け深い方です。
 この世には、主の救いは目の前に来ているのにそれを見ていない人がまだ沢山います。パウロは愛する人々の救いのために涙ながらに手紙を書きました(コリントII 2: 4)。イエス様でさえ、父なる神に向かって「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」ました(ヘブル2: 5)。イエス様が私たちのためにされたように、私たちも愛する人々の救いのために涙をもっても御言葉の種をまきましましょう。その涙は苦しみ悲しみばかりなのでしょうか。いいえそうではなく、主にあっての労苦は必ず大きな喜びをもって恵まれるのです。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(コリントI 15: 58)。
 人間は向上していくとき辛い思いをします。自分がやろう、続けようとするのは努力と忍耐と苦労が必要です。しかしイエス様が私達と共におられます。聖霊様が導いてくださいます。全能の神が働いてくださいます。苦しみの涙に勝る私達の思いをはるかに超えた喜びが神によってもたらされるのです。
 砂漠の地ネゲブに恵みの雨が降り豊かな川の流れを成すように、主は涙をもって主を求める者のために大いなることをなされます。「種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇126:6)。

2004年11月10日更新

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