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「はっきりと知らなければ」

- 2004年11月14日 -

大矢 頭 師

使徒2:32-41

  「神はこのイエスをよみがえらせました。私達はみなそのことの証人です、、、、、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(使徒2:32〜33後半)

 ここにはペテロの証が書かれています。
 五旬節の時、ペテロ達120人が集まっていたところに更に沢山の人々がどっと押し寄せてきました。何故でしょう。それはただ大きな物音がしたからです。(使徒2:6) この人達は聖霊の降臨されたことはわからず、ただ激しい物音で集まったのです。私達は聞いて集まるのではなく、「集まって祈っている時、聖霊様が来て下さった」(使徒2:1〜3)という立場に立ちたいものです。使徒2:5節に「エルサレムには敬虔なユダヤ人が天下のあらゆる国から来て住んでいた」とあります。敬虔なユダヤ人ですから当然しっかり聖書を読み祈り、そして行いにおいても優れた人達だったと思われます。なのに聖霊降臨を理解できず、物音で集まったのです。

 クリスチャンもみことばを読み祈り礼拝に参加するでしょう。しかし神様がイエス様を通して送ってくださった聖霊様抜きでは何も出来ない事を知って、聖霊様に満たされ、強くされて成長してゆく事が大切です。内側が変えられ続け、満たされ続け、私達を見る人が「何故、あのように喜び輝いているのだろう?」と驚きあやしみ、うらやまれる者となりたいものです。
 敬虔なユダヤ人とペテロ達とどこが違うのでしょう。聖霊降臨の場にいた人達はどのような人達だったのでしょう。それはイエス様の約束(ルカ24:49)を信じ、非常な喜びを抱いてエルサレムの宮で神をほめたたえ、祈りに専念していた人達です(ルカ24:51〜53) 。ペテロ達はそのみことばの約束の実現の為に切に祈り求めそしてそれを得たのです。
 十字架のそばにいた弟子達は皆、切なる痛みを持っていたと思います。何故自分はあの時、イエス様から逃げたのだろう、イエス様を助けなかったのだろう。自己中心な自分、弱い自分、おめおめ生きている自分が情けない。「イエス様を知らない!」と言った自分を思い「ああ、自分がイエス様を十字架につけたのだ」と苦しみ、悩みに悩み、悲しみに悲しんで、自分の価値を見出す事が出来ない最低のところまで落ちたのではないでしょうか。
 三度も「イエス様を知らない!」と否んだペテロは復活のイエス様に出会って、イエス様の導きによって、三度「イエス様を愛しています」と告白することが出来、いやされました。自分が殺したと絶望していたペテロにとって復活のイエス様に出会った時の喜びは、いかばかりであったでしょう。それは自分の魂の救い、いやしであったと同時に、イエス様を殺したのは自分だった、自分の罪だったという事を発見する為に必要だったのです。皆さんはどうでしょうか。
 ルカ23:48にはお金を貰い「十字架につけろ!」と叫んだユダヤ人も皆悲しんだとあります。しかしこれらの人達は時と共にその痛みは薄らぎ忘れたのです。

 イエスキリストの十字架と復活は「私の為だったのだ」と自分のものにしなければならないのです。
「ですから、イスラエルのすべての人はこのことをはっきりと知らなければなりません。神ともキリストともされたこのイエスをあなた方は十字架につけたのです。」(使徒2:36) そうです。あなたが私がそして全人類の罪がイエス様を十字架につけたのです。
 「私達はどうしたらよいでしょうか」(同2:37)と嘆き切に願うなら、語られるでしょう。「悔い改めなさい。そしてバプテスマを受けるなら賜物として聖霊を受けるでしょう。」(同2:38)と。私達はいつも自分の心を探り、神に祈り、神に取り扱っていただく必要があります。日々わずかな時間でも「私の心を変えてください。私を満たしてください。」と祈る必要があります。もっと聖められる為、もっと見える為、もっと神を知る為、犠牲を払って買いなさい。私達が神のもとにかけ寄るなら、敬虔な思いで飢え渇いて求めるなら神の喜ばれる働きが出来るのです。
 2:40に「曲がった時代から救われなさい」とあります。どんな時代だったのでしょう。神を知らない人々の世界です。この世界が私達を捕らえるなら私達は抜け殻になるのです。信仰生活をしていると思っているが、実はすべて習慣的で形だけになって、私達の内に何も起っていないのにその事すら気づかずに満足し「感謝します」と言っている。
 もしあなた方がひとつでもみことばから外れた生活をしているなら、神に叫び求めるべきです。生ぬるく生きるのではなく聖霊の火によって燃える命にあふれて新しく変えられ続けてゆく者と私もあなたもなるべきです。

2004年11月20日更新

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