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「神を信じるとは」

- 2005年1月9日 -

水野 明廣 師

詩篇150:1-6

 2年間以上にわたって詩篇を学んで来ました。締めくくりとして詩篇150編を見てゆきたいと思います。

 この箇所はクリスチャンとして神を信じてゆくための、根本的な意味を見つめてゆくための大切な御言葉です。神を信じる事とはどんな事でしょう。詩篇150:1〜6を読んでみましょう。私達クリスチャンはどうあるべきかを教える大切な御言葉です。先週は主に向かって新しい歌をうたえとメッセージしました。新しい歌とは新曲の意味もありますが、深い心の底から湧き出てくる歌、また霊的歌、楽しい時だけでなく苦しい、悲しい時でも、主に思いを向けて唱うそのような歌です
 クリスチャンはそれぞれ皆様々な生活の中で、苦しみや試練を沢山通って来ています。殉教と言う言葉はクリスチャンの歴史の中で作られた言葉です。16世紀、日本に来たカトリックの神父達は、秀吉の時代になり迫害を受け、耳を削ぎ落とされ、1月の寒さの中、裸足で京都を引廻され、九州まで処刑の為、歩かされた。そのような状態の中で彼らは輝き、讃美していたとその姿を目にした人が記しているそうです。
 ペテロも「しばらくの間、さまざまの試練の中で悲しまなければならないのですが、・・・・・言葉に尽くすことの出来ない栄えに満ちた喜びにおどっています。」ペテロ1:6〜8 と言っています。
 私達も現実の中では口で言い表すことの出来ない大きな悲しみ、苦しみに出会います。又、人の不幸を聞きます。しかし、そのような状態の中でも神を褒め称えなさいとあります。それはたとえ、どのような事があったとしても主は偉大なお方なのだからその神を褒め称えるのです。この世の人がたとえ、変人だと言おうと言葉に表現できない神の大能の御業、すぐれた偉大さを思うなら、あまりの喜びの為、躍り上がって褒め称えずにはおられないはずなのです。

 この150編では三つの大事なことが語られています。

1.聖所で主の前に来たら、主を褒め称える
2.御力の大空で主を褒め称える。・・・どこにいても、生きている限り主を褒め称えましょう。
3.大能の御業、すぐれた偉大さのゆえに主を褒め称える

何故そんなに主を褒め称えるのでしょう。

T.讃美し、褒め称える事は、主に栄光をお返しする事だからです。気分が乗らなくても、信仰によって讃美をもって、主に栄光を帰すのです。
U.主を褒め称える事は、この世の主権、力、暗闇の世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊をしばる事であり、主は讃美を住まいとされるとありますので、そこに神の臨在が現れるためです。
V.御名があがめられ、御国が現れるためです。
W.クリスチャンの証しだからです。主はイスラエルの讃美の中に住まわれるとあります。クリスチャンは霊的イスラエルです。
X.神を信じる事だからです。主の偉大さを信じ、主は良いお方である事を信じ、主のすばらしさ、うるわしさを信じる、その事の故に褒め称えるのです。

 私の証しをしましょう。私はある人の保証人になったため莫大な借金を抱える破目になりました。落ち込んで泣いている様な状態の時、ある宣教師の「喜べ」というメッセージの通訳をさせられたのです。当然、私自身は喜べない。つぶやくような全く心のこもらない通訳をしていましたが、何度も「喜べ、喜べ」といわれるその言葉に突然それは自分に語られているのだと気がつきました。状態は何も良くなっていなかったのですが喜ぶようにしました。そうしましたら、小さい三人の子供達がいましたが、妻が家計を助けるため、働く事になり、国際学校を紹介されました。三人の子供達もその学校に入学しました。何も知らなくて入学したのですが、教育費は免除され、又、日本人学校では問題児扱いされた長女が国際学校ではその特性を認められ伸ばされ立派に成長しました。お金には代えられない、娘の一生を主が祝して下さいました。経済的にも祝され、借金も返済しました。
 私達には問題しかみえませんが、神様はずっと先までご存知の方。その時はわかりませんでした。莫大な借金の為、妻が勤めることになり、そこに娘達が入学したのです。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くし難く、その道は、何と計り知り難いことでしょう」
 苦しい、つらい悲しい事はおこるでしょう。しかし現状に目を向けるのではなく将来の素晴らしさを信じて、主は必ず良くして下さる良いお方であることを信じて、主を褒め称えましょう。人に何と言われようと主を褒め称えましょう。あらゆる楽器を使い主を褒め称えましょう。

2005年1月14日更新

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