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「特別礼拝」

- 2005年1月30日 -

天野 弘昌 師

マタイ7: 7-11

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいというときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして求める者たちに良い物を下さらないことがありましょう。」

 いつも主にあって喜ぶ者に神様は力と恵みを与えてくださいます。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)喜べ、もっと喜べ、最高に喜べ!聖書からの命令です。喜びは力であり、喜びのあるところには恵みがあります。世の中のご利益信仰では、学問の神、交通安全の神、というように神はその役割を分担しています。しかし私たちの愛する天の神様には、願いを分ける必要はありません。「全部まかせなさい」と言わんばかりに、いつも共にいて恵みを与えてくださいます。私たちがたとえ教会へ来ることができなくても、父は共にいてくださいます。偏在なる主はどこにでもいて私たちを見守ってくださるのです。

 本日の礼拝ではクリスチャンにとって大切な「祈り」についてお話ししましょう。私たちは祈らないためにたくさんの祝福を失っています。頭で知っているだけで満足するのではなく、心(魂)で理解することが必要です。心が強く、いつも喜びをもっているとどんな辛さや苦しみにも耐え得る力を与えられます。しかし心が弱ると頭で考え悩むようになります。
 私はある夢を見たときから頭ではなく心で理解することを大切にしようと決めました。それは、韓国のチョウ牧師が教会の成長、いやしなどについてのセミナーをしている席で、「私は福音宣教のため頭で勝負したことはない。心で勝負した。」と語っている夢でした。この夢を通して主は私に大切なことを教えてくださいました。知識は我々を高ぶらせます。しかし霊的な力は我々をへりくだらせ、聖霊の力に満たされます。自分の知識などは打ち砕かれ、ただただ聖霊の働きに寄りすがり、祈らずにはいられなくなるのです。

 昨今の格闘技ブームで、「1、2、3、ダーッ!」とか「ハッスル、ハッスル」というかけ声がありますが、私たちクリスチャンは霊的戦いの戦士としてリバイバルに備え、1にも「祈り」2にも「祈り」3にも「祈り」なのです。「1、2、3、祈り、祈り、祈り!」です。
 聖霊様の圧倒的な力は私たちの思いを超えて大いなる力を注がれます。フィリピンのカシーデラル・プレイズ教会のデビット・サムロール先生は、ある時にとりなしの祈りを受け聖霊を受けてから、講壇に立つと神のあまりの臨在に話すことができないほどに霊的パワーに満たされ、2年間メッセージを語ることができませんでした。それにもかかわらず、集まった会衆は圧倒的な神の臨在に触れ、その教会は2万人の教会へと成長を遂げました。同じくフィリピンのモーリス・セルロ先生の集会で、先生が講壇に出る前に多くの人々がとりなしの祈りを捧げていました。人々の熱心な祈りの中で聖霊が下り、メイン講師であるセルロ先生が出てくる前に、いやしの御業が次々に起こりました。どんなに偉大な神の器であっても、とりなしの祈りと聖霊の臨在が神の大きな御業を起こすのです。我々は単に主の通り管、器であればよいのです。

 祈りにより聖霊の力を受け神の啓示が分かり毎日が御言葉で歩むようになるのです。ここでみなさんに3つの課題をお与えします。

1.祈って、祈って、祈る。・・・・聖霊の臨在に満たされるため。圧倒的な力によって教会は変わります。また、苦労している場、戦っている場で神の圧倒的な力によりそういう場も変えられていきます。

2.教会の指導者、先生方のためにとりなしの祈りを捧げる。・・・・牧師、教会の指導者たちは、この世の働きとはまったく違う働きをしています。それは永遠の魂を得るか得ないか、地獄の者を天国へ導くという霊的な働きです。その働きをサタンは攻撃します。祈りや霊的な働きを妨害するため、考え悩ませるよう頭を狙ってきます。使徒パウロも「私のためにも祈ってください」と訴えています(エペソ6:9)。祈りにより祝福が先生方にくだり、またその祝福が自分自身に帰ってきます。聖霊の火は飛び火するからです。一人の人が聖霊により満たされると周りの人にも影響するのです。

3.あかしの恵み。・・・・「天におられるあなたがたの父が、どうして、求め者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」と聖書は言っています(マタイ7:11)。あきらめず信仰をもって祈り求めるところには道が開けます。自分自身が恵まれることによって、まだ救われていない家族や友人へのあかしになります。そしてあきらめない信仰の火は奇跡を起こし教会を聖霊の火で燃やします。

 今朝、主は私にクリスチャンライフの皆様のことを「リバイバルに従順な息子、娘」とおっしゃいました。魂の救いのため涙をながして熱心に祈ってきたけれども、その祈りが報われないのであきらめかけていたかもしれません。しかし神様はその苦しい過去をすべて見ておられます。そして祈りに答えようとされています。なぜ我々はこれまで待たされたのか、なぜこれまで忍耐が必要だったのか。あなた方は何の目的のために待たされたのか。その答えはローマ人への手紙4章3・4節にあります。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」

 いじめに遭い不登校になってしまった高校生の男の子がいました。両親とともに教会へ導かれ、主のいやしの御業により自殺したいという思いから解放されました。しかしながら、時折マイナスな思いがよぎり、もっと解放されれば自分はもっとよくなるはずなのに、と彼は思いました。そして祈りのなかで彼は気付かされました。「そんなマイナスな思いに未だ苦しめられるのは、その痛みを覚えるため、同じような思いを抱いている友達の気持ちを分かるため、今は成長をするための時を主は与えておられるのだ、そして自分がいじめに遭ったから両親も教会へ導かれ救われたのだ。」ということを。
ローマ人の手紙4章5節には「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」神は私たちの成長を待っておられるのです。それは神が聖霊によって私たちに愛を与えておられる証拠です。

 主は次のような絵を私にお与えになりました。クリスチャンライフのみなさんが大きな岩をどかそうと一生懸命押しています。そのあまりに巨大な岩はなかなか動きません。押しても押しても動かないので一人また一人と動かすのをあきらめてしまい、座り込んでしまって涙を流している人もいます。そうして人々が押すのをやめてしまった中で、一人だけあきらめずに押し続けている人がいました。彼が必死にあきらめずに押し続けているのを神は見ておられ、御業をふるい巨大な岩を一気に動かしました。岩は地に落ち、消え去ったその先には、まさに刈り入れ時の輝くばかりの稲穂が一面に広がっていました。
 2005年のクリスチャンライフの標語は「収穫の季節」(ヨハネ4:35)です。今の軽い艱難は後の重い主の栄光として変えられます。主のリバイバルのため祈り備えましょう。

2005年2月3日更新

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