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「悟る信仰」

- 2005年7月3日 -

禹 浩鉉 師             
 
ローマ10:17

 「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
  
 ゲームでも、将棋でも、野球でも、殆んどのものにはルールがあります。信仰にも基本的なルールがあるのです。今日のみことばに「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。もし皆様が新たに信仰が欲しい、力の信仰が欲しいと思われたら、この「みことば」に立って歩まなければ、真の信仰を持つことは出来ません。

 この世のひとびとは自分の信仰心をだいじにします。自分が信じているものが何かを深くは問わないのです。 極端に言えば「いわしの頭も信心から」です。仏教でもいい、神道でもいいのです。仏教はそれぞれの教派によって経典は驚く程全く違うそうです。
 しかし、キリスト教は、カトリックも、プロテスタントも全部同じ聖書です。たとえ、教派がどのように沢山あっても同じ神のことば「聖書」です。ですから、教派が違っても信じているお方は、ただお一人の神なのです。 私たちが信じているおかたはどのような方なのかを知ることが大切です。そのことを知らなければ信仰を育てていくことは出来ないのです。そして、私たちは必ず信仰を試されます。その時、信じている方が本物かどうか分かります。生きた信仰は行いに出ます。その信仰の基は「ことば」です。人の言葉か、自分の思いか、又はみ言葉かです。

 私は、以前信仰を持つ前は、問題が起こると「ああでもない、こうでもない」と、一人で考え、悶々としていました。しかし、キリスト・イエスの救いに与ってからは何事も隠すことなくすべて神様に訴え、そして神様からのおことばを待ち望みます。人の言葉は虚しいものです。しかし神様からのおことばは信仰が生じます。

●「神のことばは生きていて、力があり両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、こころのいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(へブル4・12)

 このみことばによって生きることが私たちの基本です。みことばによってすべては創造されました。神のみことばは霊であり、いのちです。生きて働いています。いのちの言葉です。

 エリヤは、バアルの預言者450人との戦いに勝利したにも拘らず,すぐその後でイゼベルの脅しを恐れて逃避します(1列王記18・19〜19・3)。このエリヤを見る時、過去の信仰、過去の栄光ではなく、日々新たに信仰をいただいて強められてゆく必要があるのです。神様は日々ご自分のもとに人々が来ることを願っておられます。

 ことばは主ご自身です。ローマの百人隊長はイエス様に「わざわざおいでいただかなくても、おことばをいただかせてください。そうすれば、わたしのしもべは必ずいやされます。」という神への大きな信頼を持っていました。そして、その通りになりました。(ルカ7・6,7)
 もし、イエス様が私たちの家に来てくださっても、私たちに聞く耳がなければ何の意味もありません。イエス様はパリサイ人の家へ何度も足を運ばれています。彼らは聴こうとしませんでした。マルタとマリヤのところへイエス様が行かれたときも、接待に忙しいマルタと、イエス様の足元に座っておことばを聴いたマリヤとの比較が書かれています。マルタはイエス様を愛し一生懸命接待しました。しかし、イエス様は「マリヤは良いほうを選んだ。」といわれました。

 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。」(マタイ4・4)とありますように、主が過去に語られた言葉ではなく、日々語っておられる言葉をいただくのです。信仰とは私達が頑張って、頑張ってがむしゃらに歩むものではなく、みことばのパンを日々いただいて養われて、成長するものなのです。
 今日のみことばである「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。」の「みことば」が、耳から、また目からレーマとしてこころに入ってきた時、強い何にも負けない信仰となるのです。
 聖書は霊の糧です。毎日いただいてください。そして、過去のパンではない、今日のいのちのパンによって養われ、歩んで行くお一人一人になってください。

2005年7月10日更新

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