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「良い実に満たされるために」

- 2005年7月31日 -

水野 明廣 牧師

伝道者の書2: 25–26
ヨハネの福音書15: 16
詩篇103: 5、詩篇92: 14

●伝道者の書2: 25–26
「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」

 私たちはいつも実を穫って生きています。また一方で、種を蒔いて生きています。そして毎日、蒔いたものを刈り取って、何かの実を食べています。それが、過去に蒔いた種で、誰かを恨むということであったり、腹を立てたり、偽りという実であればにがにがしい味がして不愉快な思いをします。主はいつも祝福をしなさいと言われます。それは私たちがいつも祝福を受けるためなのです。毎日祝福の実をいただくならば、苦い思いをすることはありません。イエス様の十字架は罪・呪いに私たちが縛られることなく、良い実を実らせるため、永遠の命の実を手に入れるため成されたのです。イエス様を信じてもなお、人々を憎んだり恨んだりするならば、主の十字架のめぐみを無駄に受けることになるのです。

●ヨハネの福音書15:16
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

 私たちが主の恵みにより救われ新しい命が与えられたのは豊かな良い実を結ぶためです。その原則はイエス様の十字架です。イエス様を信じ、従い続けてなお、悩みを多く通った人ほど豊かな実を実らせます。父なる神は、時に私たちを訓練し、試みにあわせ(ヘブル12:6、イザヤ48:10)、枝の刈り込みをします。それは私達がより良い実を結ぶためです。ヨハネの福音書15章でイエス様が「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」とお話されている箇所で、イエス様は何回も「私にとどまるなら」と繰り返して述べられています。それは、私たち人間はイエス様から離れては何もできない、ごちそうも美味しくない、楽しくない、神なしでは何もできないということです。なぜならば、私たち人間が神のために造られ、神の目的のために生かされているからです。「私にとどまるなら」つまり御言葉に生きるならば、主にあっての労苦が多いほど豊かな実を結びます。幸いなことに主は私たちに耐えられない試練をお与えになりません(コリントI 10:13)。労苦や試練を通して、イエス様に頼り、イエス様だけを見つめていくようにと導かれていくのです。幹なるイエス様の枝に繋がらせるのは御言葉です。私達枝は実を結ぶ力を持ってはいません。

●詩篇103:5
「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さはわしのように、新しくなる。」

 この御言葉が成就するには1節と2節が必要です。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」また、詩篇77:11には「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。」とあります。人は主がしてくださらなかったことを思い起こしがちです。そしてそのことが苦い実を実らせ、毎日その実をとって食べては喜びのない日々を歩んでしまいます。それは決して私たちの人生を満たしてくれるものではありません。医者は打ち傷、外傷や病を治療することはできますが、それを完全にいやしてくださるのは主です。主のみわざを思い起こし、主がしてくだったことを忘れない者には主はその一生を良いもので満たしてくださいます。

●詩篇92:14
「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」そのためにも、13節「彼らは主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。」というように主の宮にしっかりと植えられることが大切です。「…彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」(イザヤ61:1)

 私たちは主の御言葉にとどまり生きるならば、イエス様の十字架のあがないにより与えられた永遠の実を味わい楽しむことができます。しかしそれだけにとどまらず人を祝福し、励まし、癒し、多くの種を蒔いてさらに豊かな良い実を結んでいきましょう。それにより私たちの人生が良い実で満たされ、喜びで満たされ、そして何より主の栄光の現れとなるのです。

2005年8月6日更新

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