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「健全な人間関係」

- 2005年8月7日 -

水野 明廣 牧師

聖書箇所:ローマ12:18

 イエス・キリストは、私たち人間と神との間にあった罪の隔ての壁を十字架の上で取り除き、関係を回復してくださいました。それだけでなく、人と人の間の壁も、十字架の愛で取り除かれました。
イエス・キリストの弟子達は、キリストが十字架に架けられたあと、一つ所にあつまって祈りに専念していました。

●使徒1:14「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」
●使徒2:1「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」

そこに聖霊がくだり、使徒達は大きな力を受け、彼らは力強い者へと変えられました。そして、彼らの手には、イエス・キリストがなされた奇跡以上の働きをする聖霊の力が与えられました。兄弟姉妹が心も思いも一つにされるということは素晴らしいことです。それは、大きな力となります。神は、キリストの十字架を通して私たちに与えてくださった聖霊によって、私たちに御霊の一致をもたらしました。

●ヨハネ17:21「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」

相手がクリスチャンでもそうでなくても私たちが周りの人と平和を保つことは、主の御心です。ロ-マ書12:18では「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」と書かれています。憐れみと慈しみの象徴であるイエス様でさえ、中傷されたり、ねたまれたりしました。ですから、私たちもまた、自分が相手にそのような思いを持たなくても、相手が私たちに対して、ねたんだり、迫害したり、いらだったり、ゆえなく怒ったりすることはあるでしょう。しかし、相手のすることや語ることによらずに、私たちは相手に対し、常によいことを語りましょう。

●ロ-マ12:17「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」

クリスチャンとキリストを信じていない人たちの違いは、私たちの内に主がおられ、私たちと共に主がおられるということです。枯れることのない命の水で私たちはいつも潤うことができます。しかし、キリストを信じない人たちは、このような御言葉の通りです。「湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」(エレミヤ2:13)他のもので、一生懸命潤されよう、満たされようとしているのです。

健全な人間関係を築くために、3つのことを申し上げます。
@伝7:21「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。」心に留めていいのは御言葉だけです。色んな方が好き勝手なことを私たちに言うかもしれません。しかし、傷つけるような言葉も、又ほめる言葉であっても、あなたはその言葉を心に留めてはいけません。いつまでも心に溜め込んでおかないでください。あの人が行くなら私は行かないとか、あの人がいるから私は止めるとか、どうか人の語る言葉を気にして自分の歩みや自分の人生を進ませないでください。
A人とは争わない。エペソ6:12「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」相手が語った言葉や行いでその人と争ってしまうのではなく、私たちはその背後で働く悪霊を見分けて聖霊の力によって信仰の勝利を治めてください。語る言葉を、慎重にあわてないで選んでください。私たちは落ち着いて語ることや聞くことを訓練する必要があります。私たちはいつも御言葉にそって、反応するようになりましょう。あわてて語らず、御言葉ではどのように言っているかを思って語りましょう。
B自分がどう思われているかを気にするより、イエス様がどう思われているかをどんな時にも感じることができるようになりましょう。使徒たちは聖霊を受ける前は自我によって生きていました。しかし、聖霊を受けてからは、御霊によって生き、主の栄光を表しました。よい人間関係を築くことができるためにも、御霊に満たされることが必要です。御霊に満たし続けられ、どんな時にも相手に祝福の思いと祝福の言葉をかけてください。

以前私は借金の保証人になり、肩代わりするはめになったことがありました。借金した人は逃げてしまい、家計的にも大変でした。しかし、何年かして、ばったりその人と会いました。その人もびっくりしていました。その時私もなんと言ったらわかりませんでした。しかし、口から出た言葉は、「色々あなたによって教えられました。感謝します。」でした。聖霊様がいなければそんな風に語ることはできなかったと思います。また、ある集まりの中でみんなの前である方から罵倒されたこともありました。しかし、なぜか、かっとしませんでした。むしろその人に対する憐れみの心で満たされていました。その後、その方は私に手紙を送ってこられ、自分が死ぬ時には是非私に司式をして欲しいとお願いまでしてくださいました。あの時もし聖霊の力が私の内になく、かっとなって言葉を語っていたらどうなっていたことでしょう。本当に聖霊の働きでした。
イエス・キリストが十字架の上で私たちの罪のためにその体を差し出してくださったので、すでに私たちは神と人との関係が回復されているのです。私たちはそれを受け取るだけです。どうぞ新しい聖霊の命で満たされて生きていきましょう。

2005年8月15日更新

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