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「大切な信仰体験」

- 2005年10月30日 -

講師 水野 明廣 師

イザヤ書 6:1-8

 「1ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
2セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
3互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』
4その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙でみたされた。
5そこで私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』
6すると私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。」

  私たちの信じる神様は本当に良いお方であるということを、知識や頭で知ることも大切ですが、この聖書箇所の1節にあるイザヤのように「主を見た」という体験で知ることがとても大切です。そのことを本日は1〜4節を中心にみてききます。

 「その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(ヨハネ1:27)と言うバプテスマのヨハネはイエス・キリストに会っており、主を知っている人です。そのヨハネの福音書12章41節では旧約時代の預言者イザヤがイエス様を見ていたことがしめされています。「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」 この御言葉は先述のイザヤが「主を見た」という1節と呼応しています。
 イザヤは主を見ていました。神が御座を治めておられる、つまり全てを統治し全てを知っておられる、だから神にあっての労苦は決して無駄ではないことをイザヤは災いのことばかりでした。主を見てからのイザヤは主にあっての預言をするようになっていき、預言の言葉が変わっていきました。

 イエス様が世に来られたのは「キリスト教」という宗教をするために来られたのではなく、豊かなたましいを与えるために来られたのです。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)同箇所の10節には「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」とありますが、主の御業にあっては、失われたものも、「失われた」のではなく、「益とされた」のです。神は十字架という最悪な罪の業をも主の勝利とされ、ご自身のいのちに代えて私たちにいのちを与えそれを豊かに持つようにされたのです。

●「御使いはみは、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」(ヘブル1:14)

 私たちにも御使いが与えられています。御使いを見たことがありますか?イザヤは御使いも見ました。1節に「そのすそは神殿に満ち」とありますが、「すそ」は神のおおいにつつまれ、安全で平安であることを表しています。その神の臨在の中で御使いは顔と足をおおって神の前でくだかれた謙遜を最大限に表しています(2節)。「互いに呼びかわし」とは調和を表し、「聖なる、聖なる、聖なる・・・」とは神中心の礼拝を表しています(3節)。御使いのように、くだかれた心で互いに調和をもって神中心の礼拝を御前にささげるならば神の神殿は揺れ動きます(4節)。神だけがあがめられる。そのような礼拝がささげられるとき神の雲が私たちの上にあるのです。

 私たちは儀式や宗教で礼拝をささげるのではないのです。預言者イザヤのように「主を見た」という信仰体験をもって主をあがめ、御使いのようにくだかれた心で互いに調和をもって主だけに栄光がある礼拝をささげたいのです。そんな体験をもつことができるように、礼拝がささげられるように、主よあなたが必要なのです。

2005年11月03日更新

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